犬の遠吠えじゃないけれど、いくら吠えてもどこへも届かない。後先いくらでもないのにもっと憂いもなく静かに暮らしたらどうなのかと思うときがある。決して心配症でもないのにあちこちが気にかかる。歳のせいだと思うのも面白くない。
最近読んだ本に日露戦争で勝利した日本に対して、米国ではいつか日本と衝突する時があると思っていた政府高官が幾人もいた。第一次大戦の後にドイツで起こったナチスの台頭で、また欧州が戦火の波にのまれてしまう。当時米国国民は厭戦気分でいた。だから英国やフランスの米国の参加要請にもずっと断り続けていたのだが、どうして急に戦争に参加したのか。ルーズベルトはすぐにでも参加したかったけれども、国民を説得するだけの材料がなかった。
しかしアジアに目を向けてみると日独伊の三国同盟を結んだ日本に対して少し嫌がらせをすれば、米国参加の糸口がつかめるのではないかと、時の国務長官であったハルノートというものを日本に突き付けた。それは満州・中国からの日本軍の撤退を要求するものであった。当時の中国には特に南京には外国人居留区があって、各国の軍隊が駐留していた。何故日本だけに?そこにとんでもない米国の思惑があった。
もともとルーズベルトの先祖には母方か父方かは定かではないが、中国のアヘン戦争で莫大な財をなしたものがいて、その権益を米国が狙っていたという事実がある。だから到底のめそうもない要求を日本に突き付けたのだ。連合国の経済封鎖によって、とうとう日本は戦争に踏み切ってしまったが、真珠湾攻撃以前に何度も話し合いを持とうと努力したのだが米国はそれを無視し続けた。こうしてみればどちらが先に喧嘩を売っているかは明白だろう。
そんなことが最初に分かっていれば苦労はない。このハルノートというのはのちにチャ-チルもマッカーサーも宣戦布告のようなものだと言っている。またこのハルという人はルーズベルトの腹心と言われているが実はスターリンとも親交があり、社会主義志向者でそのご謎の死を遂げた。ルーズベルトは戦中になくなったがヤルタ会談などの詳細が分かれば、本当にこの戦争が馬鹿げたものであったかが分かる。バカだったのは日本だが。
周りの田んぼの稲穂が重たそうに垂れ下っているのを見る時、学校の田んぼはまだ青いのでいつも気になっていたけれど、最近稲穂が生長してきてまずは一安心。必ず周りと同じ稲穂になって立派な白米になると信じている。頑張っているよ。
2018年8月31日金曜日
2018年8月28日火曜日
アメリカはひどい国だ
第二次世界大戦の筆頭戦勝国アメリカはその戦争責任を問うべく東京裁判を起こした。私はこの東京裁判の記録という分厚い本を持っている。これには「平和に対する責任」とか「人道に関する責任」ともう一つ何かがあったが思い出せない。戦争行為がそもそも平和をぶち壊す行為だから、最初に仕掛けたものに責任があるだろう。しかし戦争というものは戦勝国に勝手に秩序を変えられてしまうからその真実はわからない。ドイツナチスを裁いたニュールンベルグ裁判の東京版だが、どちらにしても検察側の言い分は横柄で横暴である。
同じ検察官であるインド出身の法律家は「これは戦勝国が敗戦国を罰する裁判で公正な裁判は認められない」と言って席を立って本国へ帰ってしまった。そして日本の被告人の弁護に回った米国の弁護士は「人道に対する責任を問うなら、私は広島や長崎に原爆を落とすように計画した者も命令した者の名前を知っている」と訴えたが、なんとこの時の日本語に通訳しているときに何度か停電になって声が途切れてしまった。こんな卑劣なことを平気でやる裁判だから茶番に過ぎない。
もっとも日本の弁護士が先般と言われた軍人の弁護をとうとうとしているときに、首席検察官が途中でその弁を遮って「我々はあなた方の言い訳を聞きに来たのではない。あなたたちを罰しに来たのだ」と堂々と言っている。それが民主主義の国の代表者の言葉なのか。たぶん日本側の弁護士の正当性に業を煮やした悪徳代官の裁きである。米国は日本人の戦い方に恐れをなしてしまって、絶対に日本は戦争をできないように米国の手で憲法第9条を作った。そして日本人が誰も自虐史観を持つように、東南アジアの隅々に日本が戦時中してきたというねつ造に近い戦争記念館を作った。
先の被告人弁護に回った米国の弁護士が言っているのは、その名前はルーズベルトとトルーマンであろう。非戦闘員を殺してはならないという戦争の掟を米国大統領が犯してしまったのだから、戦争の傷がいえた今こそ米国は広島長崎に謝罪すべきだ。謝罪したからと言って30万人が生き返るわけではないが、米国は罪を認めるべきだろう。ヴェトナム戦争で彼らは初めて敗戦を知った。ヴェトナムに対する賠償金を30万ドルと決めたが今でも支払っていない。それは自国の英霊に対して申し訳が立たないと言っている。ヴェトナムで何百万人も殺して、自国の5万人のために支払えないということだ。
どうもトランプというのは変わった人物ではなくて、米国を代表する鼻持ちならない人物なのかもしれない。中には良い人もいるというのは当たり前の話だが、国を代表する人がこのような人では困る。米国民主党の中に「彼を弾劾にかけるべきだ」という人がいて、すかさずトランプ「そうなったら株価が大暴落するだろう」と言って話は収まったらしい。正邪よりも経済が優先するのだ。日本はこれでいいのだろうか。
同じ検察官であるインド出身の法律家は「これは戦勝国が敗戦国を罰する裁判で公正な裁判は認められない」と言って席を立って本国へ帰ってしまった。そして日本の被告人の弁護に回った米国の弁護士は「人道に対する責任を問うなら、私は広島や長崎に原爆を落とすように計画した者も命令した者の名前を知っている」と訴えたが、なんとこの時の日本語に通訳しているときに何度か停電になって声が途切れてしまった。こんな卑劣なことを平気でやる裁判だから茶番に過ぎない。
もっとも日本の弁護士が先般と言われた軍人の弁護をとうとうとしているときに、首席検察官が途中でその弁を遮って「我々はあなた方の言い訳を聞きに来たのではない。あなたたちを罰しに来たのだ」と堂々と言っている。それが民主主義の国の代表者の言葉なのか。たぶん日本側の弁護士の正当性に業を煮やした悪徳代官の裁きである。米国は日本人の戦い方に恐れをなしてしまって、絶対に日本は戦争をできないように米国の手で憲法第9条を作った。そして日本人が誰も自虐史観を持つように、東南アジアの隅々に日本が戦時中してきたというねつ造に近い戦争記念館を作った。
先の被告人弁護に回った米国の弁護士が言っているのは、その名前はルーズベルトとトルーマンであろう。非戦闘員を殺してはならないという戦争の掟を米国大統領が犯してしまったのだから、戦争の傷がいえた今こそ米国は広島長崎に謝罪すべきだ。謝罪したからと言って30万人が生き返るわけではないが、米国は罪を認めるべきだろう。ヴェトナム戦争で彼らは初めて敗戦を知った。ヴェトナムに対する賠償金を30万ドルと決めたが今でも支払っていない。それは自国の英霊に対して申し訳が立たないと言っている。ヴェトナムで何百万人も殺して、自国の5万人のために支払えないということだ。
どうもトランプというのは変わった人物ではなくて、米国を代表する鼻持ちならない人物なのかもしれない。中には良い人もいるというのは当たり前の話だが、国を代表する人がこのような人では困る。米国民主党の中に「彼を弾劾にかけるべきだ」という人がいて、すかさずトランプ「そうなったら株価が大暴落するだろう」と言って話は収まったらしい。正邪よりも経済が優先するのだ。日本はこれでいいのだろうか。
2018年8月27日月曜日
夕涼み会
毎年行っている夏の行事だけれど、私たちは仕事としてちょっとした行事に取り組んでいるのだけれど、お父さんたちはせっかくの休みに幼稚園に出てきて暑い中を焼きそばなどを作ってくれている。子どものためだとはいえ、もっと涼しい時にしてくれと言いたくなるだろうな。みんな浴衣に着替えて小さな皇子様にお姫様のようで、ちょっと違った雰囲気で子どもたちと一緒にいるのが楽しい。全く子どもたちの世界は別世界だ。
あまりの暑さで息を吸う空気でさえ焦げ付いているようで、なんだか焦げ臭い。朝起きたらこんがりと焼けているようでは困るので、寝る前には部屋の温度を設定して寝る様にしているのだが、起きるときには必ず冷房がきれている。そして『暑い暑い!』と言って置きだして来る。子どもたちはいつもやることがあるから、外の暑さなど気にならないのだろうか。周りの大人が『暑い暑い!』と言っているからそのように感じてしまうのではないか。とにかく外で遊べるのが楽しみで、雨さえ降ってくれなければとても楽しい一日の始まりだ。私はそうだった。
とにかく異常気象の始まりなのだろう。気象庁でも今までに経験したことのない大雨とか土砂災害だとか大風の話をする。今までに経験のないという前代未聞の状況を伝えるくらいだから、気象庁でもその形容にほとほと困っているのだろう。いくら警告をしても人間どもが聞き訳がないものだから、とうとう地球が怒りだしたと思ってもよいだろう。米国のトランプは何の根拠も示さないまま気象異変に関するパリ協定を破棄して米国は脱会するという。あの人の一言で世界中が右往左往しなければならない。なんといっても世界一の軍事国家だからどうにもならない。どのくらいすごいかというと、米国一国の軍事力で他の国の合計より優るのだからもの一つ言えない。
外交はすべて軍事力を背景にした圧力外交で、正義がどうのというような青白いものではない。正義がどうのこうのと言っていると、そのうち日干しにされて声も出なくなってしまう。私もこの歳になってやっと分かってきたけれど、だから私にはもう訴えていくだけの気力もないけれど、せめて子どもたちの世界を守っていこうと思っている。それはどんな世界かというと、何も難しいことはない。子どもたちがいつもにこにこしていて豊かな世界だ。
あまりの暑さで息を吸う空気でさえ焦げ付いているようで、なんだか焦げ臭い。朝起きたらこんがりと焼けているようでは困るので、寝る前には部屋の温度を設定して寝る様にしているのだが、起きるときには必ず冷房がきれている。そして『暑い暑い!』と言って置きだして来る。子どもたちはいつもやることがあるから、外の暑さなど気にならないのだろうか。周りの大人が『暑い暑い!』と言っているからそのように感じてしまうのではないか。とにかく外で遊べるのが楽しみで、雨さえ降ってくれなければとても楽しい一日の始まりだ。私はそうだった。
とにかく異常気象の始まりなのだろう。気象庁でも今までに経験したことのない大雨とか土砂災害だとか大風の話をする。今までに経験のないという前代未聞の状況を伝えるくらいだから、気象庁でもその形容にほとほと困っているのだろう。いくら警告をしても人間どもが聞き訳がないものだから、とうとう地球が怒りだしたと思ってもよいだろう。米国のトランプは何の根拠も示さないまま気象異変に関するパリ協定を破棄して米国は脱会するという。あの人の一言で世界中が右往左往しなければならない。なんといっても世界一の軍事国家だからどうにもならない。どのくらいすごいかというと、米国一国の軍事力で他の国の合計より優るのだからもの一つ言えない。
外交はすべて軍事力を背景にした圧力外交で、正義がどうのというような青白いものではない。正義がどうのこうのと言っていると、そのうち日干しにされて声も出なくなってしまう。私もこの歳になってやっと分かってきたけれど、だから私にはもう訴えていくだけの気力もないけれど、せめて子どもたちの世界を守っていこうと思っている。それはどんな世界かというと、何も難しいことはない。子どもたちがいつもにこにこしていて豊かな世界だ。
2018年8月23日木曜日
トレンドだといっても
これからの幼児教育のトレンドだといわれても私にとっては波高しだ。保育内容が全く変わってしまうということではないけれど、行政側は幼児を持つ親に対して半ば強制的に社会復帰だと称して働きに出したいらしい。家の中で幼児と共にゆったりと子育てをすることが許されないらしい。幼稚園や保育所に通わされている保護者に対しても「その間は暇なんだから働きに出てはどうだ」と言わんばかりだ。行政がやさしくない。全日の連合会で家庭内で子育てをしている保護者にも助成金を出すようにお願いをしても、それは却下されたようだ。なぜなのかその理由は聞いてはいないが、私の仲間が言うには家庭にこもる母親を外に出すのが国策だからと言っている。
まったく観点が違うのではないか。母親を外に出せばそれなりに給料をもらうから、全国的に見て企業の支払い総量が増えるけれども、それは幼児の発達と何か関連しているのか。そんなことはあるまい。GDPたかGNPたかを増やせばそれなりに国の力量が評価されるだろうけれども、それは国民の豊かさとは全く関係ない。政治家の後ろについてくる無数の国民の将来を見ないで、力ずくで行政を推し進めようとする感覚は戦前の軍部の横暴さに似たり寄ったりだ。国力すなわち国民の幸せというのは幻想にすぎないことに気が付くべきだ。権力者にはそれがわかっていてもどうにもならないというのがあるから、それが不思議だ。今に裸の王様になってしまうだろう。
国会にいる政治家の質というのは国民の質と同位にあるといった人がいた。その通りだと思うから、そうでないように私たちも努力しなければならないと思っている。日大の問題やボクシング協会の問題。東京医科大学入試の問題など、きっと普通に暮らしている庶民には我慢のならない不正に見えるだろう。そんなことが世の中にはいくつも潜んでいる。それも「モリカケ」と同根にあることは確かだ。終戦時の石原莞爾のようなすっきりとした人格者が現れてくれないかと切望している。
「ちっとも面白くない世の中を面白く生きよう」と仲間に働きかけてその通りに生きた高杉晋作は今の総理と同郷である。生きていれば今の世の中をなんと思っているだろうか。為政者、特に権力を一手に握った者は、自分だけ面白くしないで国民を面白く生きさせてくれなければならないだろうが。
初等学部では3・4年生が校内のキャンプ場でキャンプをしている。別に心配はしていないが、みんなの顔が見たくなって食事のときにちょっと覗いてきた。まったく屈託がなくキャッキャっと騒いでいる。世の中の穢れや泥くさいことはあえて言わなくてもいいだろう。きれいなものはきれいに生かせて守ってやるべきだろう。
まったく観点が違うのではないか。母親を外に出せばそれなりに給料をもらうから、全国的に見て企業の支払い総量が増えるけれども、それは幼児の発達と何か関連しているのか。そんなことはあるまい。GDPたかGNPたかを増やせばそれなりに国の力量が評価されるだろうけれども、それは国民の豊かさとは全く関係ない。政治家の後ろについてくる無数の国民の将来を見ないで、力ずくで行政を推し進めようとする感覚は戦前の軍部の横暴さに似たり寄ったりだ。国力すなわち国民の幸せというのは幻想にすぎないことに気が付くべきだ。権力者にはそれがわかっていてもどうにもならないというのがあるから、それが不思議だ。今に裸の王様になってしまうだろう。
国会にいる政治家の質というのは国民の質と同位にあるといった人がいた。その通りだと思うから、そうでないように私たちも努力しなければならないと思っている。日大の問題やボクシング協会の問題。東京医科大学入試の問題など、きっと普通に暮らしている庶民には我慢のならない不正に見えるだろう。そんなことが世の中にはいくつも潜んでいる。それも「モリカケ」と同根にあることは確かだ。終戦時の石原莞爾のようなすっきりとした人格者が現れてくれないかと切望している。
「ちっとも面白くない世の中を面白く生きよう」と仲間に働きかけてその通りに生きた高杉晋作は今の総理と同郷である。生きていれば今の世の中をなんと思っているだろうか。為政者、特に権力を一手に握った者は、自分だけ面白くしないで国民を面白く生きさせてくれなければならないだろうが。
初等学部では3・4年生が校内のキャンプ場でキャンプをしている。別に心配はしていないが、みんなの顔が見たくなって食事のときにちょっと覗いてきた。まったく屈託がなくキャッキャっと騒いでいる。世の中の穢れや泥くさいことはあえて言わなくてもいいだろう。きれいなものはきれいに生かせて守ってやるべきだろう。
2018年7月27日金曜日
原点に戻ろう!Ⅱ
それでどうするのか。認定こども園は私が県の係官と納得した話し合いとだいぶ違うようだ。それもそのはずで、県は認定こども園の認定を急ぐあまり見切り発車してしまったのだ。幼稚園型認定こども園は現在の幼稚園のやり方を踏襲するということを確認したうえで申請をしたにもかかわらず、その後に国の方で子供子育て会議ができて、そこで決められたことを後追いの形で現場が移行していくという大変まれなやり方になってしまった。何を焦ってそうなったのかを考えてみると、行政の待機児童問題のただ一点だけである。
保育行政の中で、幼児期をどうしようかなどと真剣に考えているのは文科省の幼稚園課のみで、政治家を含めてそれ以外には真剣に取り合わない。だから現在幼稚園教諭や保育士に手厚い補助が出ているようだけれども、これは一過性の問題でこの制度ができて5年もすればまた過去に戻ってしまう。そのときにあたふたとしないようにこれから準備をしなければならないだろう。
原点に戻ろうということは、わたくしたちが幼児教育に熱く燃えて寝食を忘れて語り合った時を思い出し、新鮮な気持ちで子供たちの目を見て保育をしていこうということだ。幼稚園教育要領はとても立派なものである。これを理解し現場で共有できる教師のスキルアップを願いあおば台独自の保育をやっていこうとするものだ。だから認定こども園を返上して幼稚園をやっていこうと決心した。
2018年7月24日火曜日
原点に戻ろう!!
幼稚園教育要領は、『健康』『環境』『人間関係』『言葉』『表現』の五つの領域に分かれ、この領域を碁盤の目のように上手に編み込んでいく。これをどのように日常の生活に浸透させたらよいのか、保育者が最も苦心する保育力の問題である。まだある。これだけではない。これらを編み込んだ先には何を保育者は狙っているのかという大命題がある。「真摯な態度で学びに向かう力が必ず身についてくるのか」ということである。それだけではない。『人間性は』それでよいのかという自問自答がある。
この幼稚園教育要領が認定こども園に無視されている。いつか私はボウルビーの三歳児神話という話をしたことがある。『幼児教育の精神衛生』という本の中に「母性的養育の喪失は例外なく身体的、知能的、社会的に遅滞し、肉体的精神的不健康の徴候を示す」というのがある。ボウルビー博士の発表後に幼児期の発達が将来に多くの影響を及ぼすという医者からのメッセージが世界中に広まった。日本の平井信義先生が書いた「精神衛生」は幼児教育専門家や発達理解を学ぶ教育者の副読本にもなった。
しかしそれは事実とは異なり「神話に過ぎない」として葬り去ろうとしたのが当時の日本の厚生省で、そこから「三歳児神話」として定着した話だ。ボウルビーという人は、第二次大戦後の荒廃とした焦土にいかにして子供たちが生活をしていくのかということを、WHOから依頼されて欧州を起点として調査した英国人だ。しかし幼児教育者はだれもがこれは事実として神話だと思っている人はいない。現場で発達理解を学んでいる教育者はなおさらのことである。
だから言いたいのであるが、生後3か月になると母親は働いて保育所に預けることができるのが今の法律である。それを盾にとって、母親を家庭から追いやって社会に出すような政策はどうしても容認できない。母体にも影響するであろうし、保育所に預ければ自治体によって異なるけれども0歳児については最低19万円の保育料を保証しなければならない。ならばその分を家庭に還付したらどうなのか。そのほうが子供も家庭も幸せである。
急に保育の現場に補助金をばらまき、いかにも幼児教育に理解を示しているようだけれども、それは事実と違う。手厚い補助だと言っているけれども、やっと普通の生活費が支給されるようになったというのが我々の本音である。今までは保育者の犠牲と保護者の理解と協力によって何とか運営してきただけの話だ。幼児教育には子どもには投票権もないしあまり政治家の票に結びつかないから、政治家の関心もいまいち鈍い。まだまだ書きたいけれど、読む人も私も疲れてきたようだ。
急に保育の現場に補助金をばらまき、いかにも幼児教育に理解を示しているようだけれども、それは事実と違う。手厚い補助だと言っているけれども、やっと普通の生活費が支給されるようになったというのが我々の本音である。今までは保育者の犠牲と保護者の理解と協力によって何とか運営してきただけの話だ。幼児教育には子どもには投票権もないしあまり政治家の票に結びつかないから、政治家の関心もいまいち鈍い。まだまだ書きたいけれど、読む人も私も疲れてきたようだ。
2018年7月23日月曜日
初等中等学部の給食
久しぶりに給食を作った。というのも賄いのおばちゃんが何かの都合で1週間北海道へ行ってしまったから、残ったおばちゃんたちと一緒に焼きそばを作ることになった。これは誰にでもできるし、初等学部には大きな鉄板があって、お好み焼きやら焼きそばなどアウトドアで作る食べ物は殆どできる。焼き物は校長が主体となってへらを使ってやってくれている。この暑いのに汗をびっしょりかいて黙々とへらを動かしているので、教師が授業の合間にかわるがわる来て手伝ってくれているが、校長は微動だにしないでいる。どうも鉄板焼きが好きらしい。
おかわり委員会と言うのがあって、みんなが好きなものを上級生が先におかわりをして食べてしまうから、みんなが平等に食べられるようにという趣旨のもとに小学3年生が主体で委員会が構成されている。しかしよく見てみると、最初の盛り付けだけはみんな平等であるけれど、次のおかわりになるとがぜん中学生男子が早く、小学生低学年はおいてけぼりである。低学年の子供たちと一緒に食べていたので、子どもたちに『おかわりできなくなっちゃうよ』というとにこにこしていてそれには答えてくれない。案の定子どもたちが一杯目が終わるころには中学生は3杯目などというのがいて、到底2杯目が食べられない。それでも子どもたちは不服を言わないで満足しているようである。
ここの子どもたちの発想は鋭角的ではない。最初のころは鋭角的に鋭くぶつかって来た子もいたけれど、見ていても見ぬ振りして子どもたちが自ら気付いてくれるまで待っていた。幼稚園の子どもたちと共に暮らしてきたせいか『待つ』と言うことが容易に出来るようになった。1カ月ぐらい過ぎるころには彼の言葉も柔らかくなって好感のもてる少年になっていった。基本的に優しい両親に育てられているから、自らの違和感を発見し自らを正す力も備わっている。いくら突っ張っても柔軟に吸い取ってあげるから、周りの子とすぐに同化できる。
たまに子どもたちと一緒に何かをするというか、この世界に入っていくことがよいと感じる。私もここで校長をしていた時があるから子どもたちとはすぐに親しみ深く話ができる。途中からこの学校に来た子どもたちが生き生きとしているのはここの学校のシステムは勿論のこと、子どもたちの寛容さがそうさせている。教師も『待てる』寛容さを持っている。若いのにすごいことだ。
昨日の幼稚園の話だけれど、政府がやっている『子ども子育て』について、あのやり方で本当に子どもたちが幸せになるのかというと疑問だらけである。昨日も書いたけれども女性の社会進出などと今から始まることではなく、女性は子育てということですでに一人の子供を育てるのに月75万円の社会貢献をしている。それを忘れていることは女性を軽んじていることではないか。なのに家庭で育児をする女性には手当は無料で、幼稚園や保育所に預ける家庭には保育料が無償になるというのは容認できない。むしろ家庭で育児をしている母親に手厚くするべきだ。子どもにとってこれほど素晴らしい保育はない。
保育者がどれほど偉そうなことを言っても『母』に勝てるわけがないのだから。子どもたちの将来を考えれば日本のためにもその方がよい。家庭の経済的事情でやむを得ず働きに出なければならないという人が多ければ、まったく豊かではない日本の証左ではないか。それを無理やり国民総生産という見かけの豊かさを追って自己満足に浸る政治家はどうかしている。家庭から乳幼児を持つ母親を追い出してそれで日本の国が豊かになることは絶対ない。乳幼児を持つ母親が幸せを感じる様でなければ真の豊かさは訪れることはないのだ。
おかわり委員会と言うのがあって、みんなが好きなものを上級生が先におかわりをして食べてしまうから、みんなが平等に食べられるようにという趣旨のもとに小学3年生が主体で委員会が構成されている。しかしよく見てみると、最初の盛り付けだけはみんな平等であるけれど、次のおかわりになるとがぜん中学生男子が早く、小学生低学年はおいてけぼりである。低学年の子供たちと一緒に食べていたので、子どもたちに『おかわりできなくなっちゃうよ』というとにこにこしていてそれには答えてくれない。案の定子どもたちが一杯目が終わるころには中学生は3杯目などというのがいて、到底2杯目が食べられない。それでも子どもたちは不服を言わないで満足しているようである。
ここの子どもたちの発想は鋭角的ではない。最初のころは鋭角的に鋭くぶつかって来た子もいたけれど、見ていても見ぬ振りして子どもたちが自ら気付いてくれるまで待っていた。幼稚園の子どもたちと共に暮らしてきたせいか『待つ』と言うことが容易に出来るようになった。1カ月ぐらい過ぎるころには彼の言葉も柔らかくなって好感のもてる少年になっていった。基本的に優しい両親に育てられているから、自らの違和感を発見し自らを正す力も備わっている。いくら突っ張っても柔軟に吸い取ってあげるから、周りの子とすぐに同化できる。
たまに子どもたちと一緒に何かをするというか、この世界に入っていくことがよいと感じる。私もここで校長をしていた時があるから子どもたちとはすぐに親しみ深く話ができる。途中からこの学校に来た子どもたちが生き生きとしているのはここの学校のシステムは勿論のこと、子どもたちの寛容さがそうさせている。教師も『待てる』寛容さを持っている。若いのにすごいことだ。
昨日の幼稚園の話だけれど、政府がやっている『子ども子育て』について、あのやり方で本当に子どもたちが幸せになるのかというと疑問だらけである。昨日も書いたけれども女性の社会進出などと今から始まることではなく、女性は子育てということですでに一人の子供を育てるのに月75万円の社会貢献をしている。それを忘れていることは女性を軽んじていることではないか。なのに家庭で育児をする女性には手当は無料で、幼稚園や保育所に預ける家庭には保育料が無償になるというのは容認できない。むしろ家庭で育児をしている母親に手厚くするべきだ。子どもにとってこれほど素晴らしい保育はない。
保育者がどれほど偉そうなことを言っても『母』に勝てるわけがないのだから。子どもたちの将来を考えれば日本のためにもその方がよい。家庭の経済的事情でやむを得ず働きに出なければならないという人が多ければ、まったく豊かではない日本の証左ではないか。それを無理やり国民総生産という見かけの豊かさを追って自己満足に浸る政治家はどうかしている。家庭から乳幼児を持つ母親を追い出してそれで日本の国が豊かになることは絶対ない。乳幼児を持つ母親が幸せを感じる様でなければ真の豊かさは訪れることはないのだ。
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