2019年4月18日木曜日

散る桜1年たてば桜咲く

3日前に学校の株立ちの大きな桜が見事に満開になった。今日はもうだいぶ散ってしまってはげ山の木が立っているようだ。それでもどしっとしていて木陰にいる小学生を優しく包んでいるような気がする。家のつつじも若い芽が息吹いて、もうすっかり春になったことを主張している。今は柔らかい日差しが差し込んでいるけれど、あとひと月もすると強い日差しがいたるところに入り込んできて、冬の冷たさが恋しくなる。桜の花も咲き誇っている時間が短いけれど、春という季節も心に留め置くこともできないくらいさっと過ぎていってしまう。
春の陽射しの柔らかさは、幼児のさよならする手の柔らかさに似ている。私が出かけるときに、ちょうど2階への手すりのところで、何人かが固まって大きな声で何かわめきたてている。私の名前を呼んでいるのか、さよならを言っているのか、みんなで同時に声を上げるから何を言っているのかさっぱり分からない。それでも子どもたちは自分の想いが通ればそれで意思の疎通ができたと思っている。何を言っているのかが分からなくても、思い切って大きな声を張り上げることができるということは、伝達方法がよく分かっていることだ。もじもじしているのではなくて元気があってとてもよい。

2019年4月12日金曜日

必ず咲く桜

初等中等学部から二つの幼稚園まで新入学児童や新入園児がでそろって、幼稚園の園庭にはたくさんの子供たちの活気で溢れている。初めて幼稚園に来た園児の中には不安そうにしている子や、サイレンのような泣き方をして保育者を求めている姿もある。なかなかスムースに入れない子でも、あと2日もすればにこにこして幼稚園の主のような振る舞いに代わる子もいるから心配はいらない。新入園児が私の手をとって『あそぼ』と言ってきたので、『何して遊ぶの』と聞いてみたら『かくれんぼ』という。『かくれんぼ』は私にはあまり意味のある遊びではないけれども、子どもたちにはコミュニケーションの手段としてすぐに思いつく遊びなのだろう。
目標や希望に向かっている人は目が輝いて見えるとよく言われるけれど、幼稚園の子どもたちは全身を使って輝いているではないか。人が輝くのは希望や目標に向かっている時ではなくて、幸せを満喫しているときなのだということに気づく。憂いなく幸せを感じている姿は、見ている側の心を幸せに導いてくれる。だから子どもたちといるときは幸せなのだ。初等学部の校庭にある大きな株立ちの桜はまだ満開にならない。この近辺では一番遅く咲く桜だ。しかしながら、必ず立派に咲いて何処よりも見事に咲き誇る。ゆっくりでも必ず立派に咲き誇る姿が何とも学校を暗示しているかのようだ。

生命力

  どろんこの中で体を横たえてけらけらと笑っている。何がおかしいのか、何が楽しいのかなんだかわからないけれど、腹を抱えて笑っている子もいる。泥の中からむっくりと起き上がって、子ども同士は顔を見合わせて笑っている。肩を震わせて笑っているから、きっと何か楽しいことを見つけたのかもしれ...