2020年12月25日金曜日

久遠返せば 3

  イギリスではコロナ感染者の60%が変異したコロナウイルスに感染したそうだ。変異したコロナウイルスは感染力が強く10代の子どもたちに多く感染しているらしい。海外の話はよく聞くけれど、わが政府には積極的にウイルスを撲滅しようという気がないのかな。うまくいけば経済に影響を及ぼさないで、なんとなくコロナがおさまってくれればよいと思っている節がある。またはどうしてよいものか手をあぐねているようにも見える。非常事態宣言を出して、しばらく様子を見るのもいいのではないか。GOTOを辞めてもあまり変わりはないどころか、日に日に感染者が増えているではないか。自分は大丈夫だという正常性バイアスは人間の心に深く根差しているから、すぐそばに命の危険を感じないと感染者は減らないのかもしれない。

 幼稚園も小学校も今年の業務は終了した。正月を挟んで今度会う時には全員が元気でいてくれることを祈るばかりだ。コロナに感染して家族の方たちが辛い思いをしたり、肩身の狭い思いをしないように願いたい。おうちの方も十分に注意をして、子どもに感染させないように万全を期していただきたい。

 中国の武漢にある研究所は細菌兵器の研究所らしいではないか。大体どこの国でも兵器の研究所では細菌を取り扱っているから、あまり強く言い出さないのが各国の現状だろう。フィリピンのドウテルテ大統領は全くの内弁慶で、中国が自分の国の領土である海岸を埋め立てて軍事施設を作っているのに、「今は私のところに力がないから」と言って許してしまっている。このような国が結構ある。日本でも習近平を国賓で呼ぶなどとほざいている自民党の反日議員がいたけれども。彼らは殆どマネートラップかハニートラップに遭遇しているとみて間違いがないだろう。本当のところの外交は分からないけれども、香港を見ても国民感情から離れている。

2020年12月24日木曜日

ハットシテグー!

  誰だか知らないけれど投稿したものを読んだ。見出しを読んでついつられて読みだしてしまったものだ。それはこうだ

菅総理除名か 隠ぺい操作 疑惑隠し 偽装操作もあるかもしれない これで良いのか自民党!  ここまで読んだら 今度は何をやらかしたのだろうかと興味津々である。このいい加減な投稿元を探ったら 何と「全国禿議員協会」だって。なるほどなと思って、身に覚えのある私はとっさに頭に手をやる。

2020年12月18日金曜日

久遠返せば 2

  世の中は正論ばかりでは息が詰まって多くの人たちからの賛同は得られないが、あまりにも正論から離れてしまっている自分勝手な言い訳は問題が残るだろう。奈良県のサッカー全国大会の出場が決まった山辺高校の飲酒問題などは問答無用だと思うが、高校の校長の裁量ではなく県の教育委員会の考え方を聞きたい。これが私立高の野球部だと甲子園はいけないだろうと思うが、何よりも学校も担任も責任者を不問にしているところに教育性はない。組織として行えば組織の中の責任として誰かが責任を取らなければならないはずなのに、大人のまねをしてみたくなる年頃だからそれはそれとして笑って見過ごしてもよいと思っているけれども、その行為についてはきちんと罰を受けなければなるまい。公立だから生ぬるい。矜持なる心があってもよさそうなものだ。そう言われる。これは後になって問題が起こることは必然。

 総理の周りには軽量級の閣僚しかいないようだ。8人で夕食会をやったということが何人ならよくて何人以上はだめなどということが議論されていることがばかばかしい。国の総理がそのようなことにかかわらなくても、周り者がしっかりと対処できればそれで済むことなのに、閣僚が総理をかばっているような発言をするから火に油を注ぐ様なことになる。国の方針としてウイルス感染を最小にするために多くのスローガンを立てているけれども、どれをとっても完璧ではない。国民の一人一人が自覚しないとうまくいかない。これが戦時中で米国の飛行機から焼夷弾が落とされていれば全員が安全な所へ退避する。個々の命を守ろうとする意識が低い。敵の正体がわからないというのも一因だ。

 初等学部で餅つきがあるというので久しぶりに学校へ行ってみた。風が強くて冷たいという状況だったけれど、身体を前かがみにして子どもたちのクラスに行ったが、子どもたちは「寒い」とか「冷たい」などとは言わない。幼稚園でも素足で泥遊びをしている子がいて「冷たくないか?」と聞いても相手にしてくれない。そのような神経が休んでいるのかもしれない。真っ赤な手をしているのだからきっと冷たいだろうと思うのだが、子どもたちは意にかえさない。自分も小さいころには近所のおばさんたちに「寒くないの?」とかよく言われたけれど、夢中になってやることがあるときには「寒い」とか「冷たい」などと言ってはいられない。そんなことを言って遊びを中断されることの方が辛い。

 高学年の子どもたちと食事を一緒にしたけれども、なんとも味気ないというか一つのテーブルに二人というように決まっていて、お話をしてはいけません音楽をかけますというようになっている。その音楽とやらも今風のというか、まったく聞いたこともない殺風景な音楽で、私には合わない。コロナの影響だけども、まったく学校の中の子どもたちという気がしない。多少の規則を破って、伸び伸びとしたいつもの子どもたちと会いたかった。大切なお子様を預かっているのだから、そんな無責任なことを言ってはいけないと叱られそうだ。


2020年12月14日月曜日

久遠返せば

  久遠返せば恥ずかしいことばかりだ。幼少のころは近所の子どもたちと日が暮れるまで遊びまわっていた。遊びまわるというのは、定住区域を少し離れて探検家のつもりでいたのかもしれない。定住区域というのはだれが決めたわけでもないけれども、なんとなく子ども同士の中で合意されていた線引きがあったように思う。動物のような縄張り意識みたいなものかもしれないが、動物はそれを生きる糧として守っているけれど、幼児期の私たちも生きる糧としての無意識の縄張りなのかもしれない。よくやったのは近くの神社の大きな木の上に住処(すみか)を作ることや、いたずらと言えばあちこちに穴を掘って落とし穴を作ってその見張りをやっていることがとても楽しかった。その落とし穴に落ちた大人が本気になって怒って追いかけてきたときには本当に恐ろしかった。家の中に入って息を殺して怒りが収まるまでじっとしていたのを今でも覚えている。今でも思い出すと、心臓がチクリとする。

 もう半世紀以上前のことだから、思い出も途切れているけれども、みんなが貧乏だった。着ているものも殆どが粗末なもので、袖はいつでも鼻水を拭くのでピカピカのかぴかぴだった。そんなことを気にする子どもたちは誰一人いなくて、意気揚々としていた。子どもにとっては遊ぶ仲間と時間さえあれば十分すぎるほど幸せなものだ。誰一人として何が食べたいとか食べ物について夢心地のような話をする者はいない。もっともそのような経験もなかったから仕方がなかった。

 今の子どもたちは私たちのころと違ってモノがあふれている分だけ不自由なのかもしれない。ものを考える前に答えを出されてしまってはこれほど面白くないものはない。木の上に住処を作るのはとても危険で何人かはリタイヤした者もいる。それでも続けたいと思って最後までやり通すのはどんな気持ちなのだろうか。誰にも言われたわけではない。興味の継続なのだ。興味を持つことがいかに物事を成就させてくれる力になることか。それが大人になってからも継続されるものだということは保障されないが、思いが残っているということだけでも多少人生の豊かさに寄与しているのではないか。

生命力

  どろんこの中で体を横たえてけらけらと笑っている。何がおかしいのか、何が楽しいのかなんだかわからないけれど、腹を抱えて笑っている子もいる。泥の中からむっくりと起き上がって、子ども同士は顔を見合わせて笑っている。肩を震わせて笑っているから、きっと何か楽しいことを見つけたのかもしれ...