2023年6月29日木曜日

人生の勝利者とは

 

人生の勝利者とは

人生百歳時代とか、長寿が人生の勝利者だとか、長生きすることを盛んに讃えている様子がある。70になってあと30年はきついと思うがいかがだろうか。80になってあと20年というのもきつい。人それぞれの体力によってその感覚は違うであろうが、年齢の長短ではなくて、いかに意識的に満足できる人生を送ってきたかどうかであろう。

 

 病気の種類にもよるだろうが、私ぐらいの年齢になると、延命装置を付けますかということをきかれる。私は即座に拒否したが、あれは何のために着けるのか、あとに残されたものに大きな負担をかけるだけではないのか。意識のない物体を生き永らえさせておくなんて、それで平均寿命が延びたなんて言うことは、まやかしではないか。

 

 それでなくとも医療費は高額だ。なるべく残されたものに迷惑をかけないで、後悔せず潔く散ることを、腹の奥底にどしっともっていないと、死んでからも多くの人の世話にならなければならない。もうさんざん多くの人の世話になり、迷惑をかけてきたのに、これ以上 は負担をかけるようなことはしたくない。

 

 私は幼児教育については、学会で発表するまでに仲間によって引き上げられてきた。しかも筑波大から出ていったのだから驚きだ。そのテーマは「握力と生活意欲の関係」だ。あの頃は、あおば台の年長だけでちょうど100名いたので、区切りが良く案外時間をかけずに調査することができた。故杉原先生(恩師、元筑波大教授)のおかげで、勉強嫌いな私でも一点集中することができて、もちろん側についていてくれた院生もいたけれど、最後までやり遂げることができた。発達理解の大元は幼児期であるということも完ぺきに理解できた。心理学では多くのジャンルに分かれているけれど、人の心のありようは幼児期からの積み重ねである。

 

 今日もまた病院へ行って検査である。鳥の糞や羽などが宙を舞っているらしくて、私にはよく見えないけれど、医者はそう言っている。私はその見えない敵に怯えて毎日外へ出られずじっと家の中にこもっている。「医者の言うことをきけ」という人がいるから今のうちはそうしているけれど、こんな事いつまでも続くはずがない。私は元気だと思っているのだから。鳥の糞なんかに負けていられない。

 

 最初に戻って「人生の勝利者とは」。私は人生を振り返り後悔をしない人。楽しさでニヤニヤできる人ではないかと思っている。子ども達の中へ入って一緒にゲラゲラと笑ったりすることができなくなってしまったのが寂しいけれど、やり残したものはない。新しく楽しさを生み出せるような体力も気力も知恵もなくなってきている。保育者は常に楽しさの追求ができなくては自分を苦しめてしまう。

2023年6月26日月曜日

小学校の学校説明会に参加してきた

 

小学校の学校説明会に参加してきた。とても多くの人たちが来ていて驚いた。全員が入学してくれることを望んでいるが、そんなことはあるまい。もう何年も何回となく説明会を行っているけれど、説明会に出席された子供たちが学校へとどまるということはまずない。子どもたちの顔を見ても、その動きを見てもなるほど子供らしいし、何と言っても素直なのがいい。子ども達にとっては居心地の良い素晴らしい学校だ。

塾のようだと勘違いされるのが嫌だからあまり学校の成績のことは言わなかったけれど、この学校は教科書も良くやっている子がいる。進学校で有名な私立の中高へ過去に何人かも行っていて特Aをとるなんて言って頑張っている子もいて、いろんな子がいてそれでいい。みんな一緒ではなくてそれぞれの人生だから誰かの真似をする必要はない。一人ひとりが輝けるのがいい。

2023年6月21日水曜日

何がどうなったのだ

  子育てについて家庭での教育力の低下には目を見張るものがある。いや国全体の教育力が低下している。総理の息子が官邸で一杯やったとか、このような類の人物を日本最高府の官邸に入れてしまう総理としての人物的資質にも教育がいきわたっていない。その人が異次元の子育て政策なんて言ったって底が見えている。パフォーマンスだけで何も決まっていないではないか。増税をしないと言いながら共済の金額を上げるなんて言っているけれど、あれは私たちは保険税と呼んでいる。こんなまやかしをやっていて増税はしないなどとよく言えたものだ。せっかく所得を上げるところまで追いついてきたのに、共済を上げたら所得がかなり減額になる。

 来年になるとよくわかるのだろうが、出生率はまたまた最低を記録するだろう。子を産む分母が減っていることも要因だが、いくらお金をばらまいても子どもは増えない。世界中に散らばっている難民に門戸を開けて、しっかりとした教育を施して日本人にしてしまったらどうなのか。単一民族なんてことはこれからははやらないし、そんなことがこれからも維持できるなんて思えない。これからは政治家の好きなGDPは下がる一方だ。

 教育力の低下に戻ろう。私が教育力があるということでは決してないけれど、私が学んできたことは素直に子どもたちに還元している。以前の話になるけれど、あおば台は「ケガについてあまり真剣に考えてくれない」と言った保護者がいた。ケガについてあとまで残るようなケガをさせたことがあるだろうか。200人を超える子どもたちがいるのに、全員に目を配るのは至難の業である。しかし子どもたちには入園してきた直後から園の危険個所をしっかりと伝えてある。その上で園庭などには保育者をどのように配置すれば効率よく子どもたちを見守ることができるか話し合っている。当たり前のことだが、微に入り細に入り神経を使っているのに、ケガについて真剣に考えないなどは無礼千万である。

 保護者が目をつぶって任せてくれなければ子どもは自由になれないし、冒険ができなくなる。冒険ができない子どもになってしまってはその子の一生の問題になるだろうし、私の保育観とは相いれないものだ。子育てにはドンと構える太っ腹も必要なのだ。ケガをすれば小さなケガとは言わないけれど、そのことによってその子はそれ以上のけがをすることは回避できるだろうし、まったくケガをしないで子ども時代を過ごしたなどというのは自慢にもならない。私はこれまで多くの難題に直面してきたけれど、私の保育観や子ども観が受け入れられなくなったら、私は潔く保育現場から去る。小学校の子どもたちの発達理解についても同じことである。

 保護者も変われば、保育者も学校の先生も子どもを見る意識が変わってきたことを、身にしみて感じてきたこの頃である。もう30年も前のことになるけれど、今の幼稚園が新築されたときには、ある保護者が木の電柱を98本寄付してくれた。それを使って遊具を保育者と一緒に作った。保育が終わった後でも皆で楽しんでワイワイと作った。「明日子どもたちはこれを見て何というのかな」ということが唯一の楽しみだったのだ。投光器を持ってきて夜遅くまでやるときもあった。誰もそれに不服を言うものはいなかった。子どもたちの顔を見ることが楽しみだっただけのことだった。幼稚園生活が子どもたちと共に楽しかった。今はちょっと難しくなったかな。

2023年6月15日木曜日

変な病気にかかったものだ

  変な病気にかかったものだ。女房は主治医の言うことに一辺倒だ。医者の使命を理解していないわけではないけれど、医者は病気を治すことはできても、人の心を治すことはできない。主治医の指示にいちいちもっともらしく頷いている傍らの女房に、私は瞬間空恐ろしさを感じる。主治医はレントゲンの写真やCTの写真を覗きながらあれこれと説明をしていてくれるけれど、私の心の中を覗こうとしない。私は病名がはっきりしたときに主治医から延命装置の話を聴き、私はそれを拒否した事実がある。私には理解不可能な大量の薬については目に見えた延命装置にしか映らない。主治医の指示に教条的に聞き入っている女房と議論の余地はない。自然治癒に任せることは不道徳なのか。自分の命を自分で選択できないのか。無理矢理生かされてもそれは幸せではない。長生きすることが人生の勝利だなんて馬鹿なことを言っていた薬屋の回し者のような人もいたけれど、人生の価値はいかに生きたのかであると思っている。自分自身で顧みて「にこっ」笑えればいいではないか。子どもたちの中にいて、子どもたちと共に笑い、ともに苦悩する時もあった。そんな素晴らしい人生を送ることができたではないか。過去を惜しむことはない。私をそっとしておいてほしい。

 幼稚園の玄関にはご丁寧に立派なツバメの巣がある。一生懸命何か月前から修復を繰り返しながら作ってきたものだ。それをあっさりと取り除こうとしている。保育者たちが私を思ってそうしようと思ったらしいけれど、ツバメには関係がない。私がそこを通らなければよいことだ。

 

2023年6月14日水曜日

ゆとりがなければ

  きのうまではあんなに優しく親切にしてくれたのに、今日は打って変わってまるで手のひらを返したようだ。それは退院する時の話として書いた。ゆっくりとよく考えてみると、人はゆとりがなければ優しくなれないということだ。忙しくイライラしているときには物事を見誤る。優しくなれないのは見誤っているときなのだ。

 初等学部の保護者から、NHKの取材があるけれどよろしいですかとの連絡があった。フーンと唸ってみた。学校の名前が出るらしい。よくやってくれるな。感謝だね。

2023年6月13日火曜日

退院

  一カ月前に入院して退院してきたのにまた同じようなことをしている。医者が言うには「外へ出てはだめです。空気中に鳥の羽が回っているそうな。外に出てそんな光景と出くわしたことがないから、そういわれてもにわかに信じられるものではない。間質性肺炎では鳥類の羽に類したものが一番困ると言っていた。それに付着した者には絶対に近寄らないことと言われている。もう入院はしたくない。看護婦さんたちは日夜私の面倒を見てくれて心の底から感謝している。しかし退院の日がこちらの都合でどうしても日曜日と重なってしまったせいか、日曜日の病院は非常に手薄で看護婦もほとんどいないに等しい。手厚い看護から手薄い看護に早変わりして、非常に粗雑な扱いを受けた。あんなに親身になってくれた看護婦さんがいるのだから悪口は言いたくない。「ありがとう」だけ言っておこう。

 私の状態をはっきりさせておかないと、幼稚園の保護者や学校に通う児童の保護者に対して責任が取れないので事実を言いました。しかし主治医の話を全くうのみにしていたら、私はこれから先どうしていいのかわからない。外に出てはだめだとか飛行機での海外旅行は無理だと言われても、それなら私は毎日何をして過ごしていけばいいのか。幼稚園にもいくし学校へも行くそうでなければ生きている証がないではないか。

 私はずっと考えていたことがある。あのSDGsのことである。化石燃料に変わる代替えエネルギーについて、通産省が旗を振り、それに群がる甘いものを求めている蟻が群がっている。当然のようにそこには不正が起こり大きな会社が倒産の憂き目を見ている。「不正はつきもの」として見過ごしていいのだろうか。東京都では建築基準の中に屋根には太陽光発電を義務付けた。この発電の資材の80%は中国で作られている。殆どが日本では輸入に頼っているのが現状だ。政治的なにおいが漂っているではないか。これからの太陽光発電はうまみはない。それに国のことを考えたら山の木を切り、更地にして太陽光発電をやるにしても緑を失うことはCO₂を多発させることになる。ドイツでは緑の党だのSDGsだのと世界の中でも非常にうるさい国ではあるけれど、ロシアのガスが入ってこなくなったら、みんな口をつぐんでしまって石炭の露天掘りまで始めたではないか。この世界は社会正義はなくて、ある有力者の意向に沿った政策が行われているに過ぎない。またちっぽけな社会正義など振りかざしてもそよ風にもならない。誰かが変えなきゃ。

 また地球温暖化や冷却期間などは、この何世紀かのことではなくもっと以前にもあったはずではないか。氷河はその一つの例だし、サハラ砂漠もかつては緑豊かな土地であったというではないか。その証拠が砂漠を掘っていくとある。地軸反転もあったというし、現在の異常気象と言われているものは地球上の避けられない現象であって、二酸化炭素だけの問題ではないと思う。あまりにもSDGsの嵐が強すぎて、地球物理学者が出てこれなくなっているのではないか。南極の氷のコアを調べている学者が、地球温暖化や寒冷化は交互にきていると発表していたのを覚えている。異常気象だけが先に走り出してしまっていて、世界の金持ちの有力者の発言に誰も文句が言えなくなってしまっている気がしてならない。

 

能登半島

   能登半島でM7の巨大地震があるなんて夢想だにしなかった。正月に「昨日と同じ朝が来る」なんて不謹慎なことをかいてしまった。まさかそのあとで能登半島に大きな地震が来るなんて悔やみきれない。今日時点で死者数が202人となった。行方不明者がその200人を超えている。これからまだまだ...