2023年6月21日水曜日

何がどうなったのだ

  子育てについて家庭での教育力の低下には目を見張るものがある。いや国全体の教育力が低下している。総理の息子が官邸で一杯やったとか、このような類の人物を日本最高府の官邸に入れてしまう総理としての人物的資質にも教育がいきわたっていない。その人が異次元の子育て政策なんて言ったって底が見えている。パフォーマンスだけで何も決まっていないではないか。増税をしないと言いながら共済の金額を上げるなんて言っているけれど、あれは私たちは保険税と呼んでいる。こんなまやかしをやっていて増税はしないなどとよく言えたものだ。せっかく所得を上げるところまで追いついてきたのに、共済を上げたら所得がかなり減額になる。

 来年になるとよくわかるのだろうが、出生率はまたまた最低を記録するだろう。子を産む分母が減っていることも要因だが、いくらお金をばらまいても子どもは増えない。世界中に散らばっている難民に門戸を開けて、しっかりとした教育を施して日本人にしてしまったらどうなのか。単一民族なんてことはこれからははやらないし、そんなことがこれからも維持できるなんて思えない。これからは政治家の好きなGDPは下がる一方だ。

 教育力の低下に戻ろう。私が教育力があるということでは決してないけれど、私が学んできたことは素直に子どもたちに還元している。以前の話になるけれど、あおば台は「ケガについてあまり真剣に考えてくれない」と言った保護者がいた。ケガについてあとまで残るようなケガをさせたことがあるだろうか。200人を超える子どもたちがいるのに、全員に目を配るのは至難の業である。しかし子どもたちには入園してきた直後から園の危険個所をしっかりと伝えてある。その上で園庭などには保育者をどのように配置すれば効率よく子どもたちを見守ることができるか話し合っている。当たり前のことだが、微に入り細に入り神経を使っているのに、ケガについて真剣に考えないなどは無礼千万である。

 保護者が目をつぶって任せてくれなければ子どもは自由になれないし、冒険ができなくなる。冒険ができない子どもになってしまってはその子の一生の問題になるだろうし、私の保育観とは相いれないものだ。子育てにはドンと構える太っ腹も必要なのだ。ケガをすれば小さなケガとは言わないけれど、そのことによってその子はそれ以上のけがをすることは回避できるだろうし、まったくケガをしないで子ども時代を過ごしたなどというのは自慢にもならない。私はこれまで多くの難題に直面してきたけれど、私の保育観や子ども観が受け入れられなくなったら、私は潔く保育現場から去る。小学校の子どもたちの発達理解についても同じことである。

 保護者も変われば、保育者も学校の先生も子どもを見る意識が変わってきたことを、身にしみて感じてきたこの頃である。もう30年も前のことになるけれど、今の幼稚園が新築されたときには、ある保護者が木の電柱を98本寄付してくれた。それを使って遊具を保育者と一緒に作った。保育が終わった後でも皆で楽しんでワイワイと作った。「明日子どもたちはこれを見て何というのかな」ということが唯一の楽しみだったのだ。投光器を持ってきて夜遅くまでやるときもあった。誰もそれに不服を言うものはいなかった。子どもたちの顔を見ることが楽しみだっただけのことだった。幼稚園生活が子どもたちと共に楽しかった。今はちょっと難しくなったかな。

能登半島

   能登半島でM7の巨大地震があるなんて夢想だにしなかった。正月に「昨日と同じ朝が来る」なんて不謹慎なことをかいてしまった。まさかそのあとで能登半島に大きな地震が来るなんて悔やみきれない。今日時点で死者数が202人となった。行方不明者がその200人を超えている。これからまだまだ...