2019年10月28日月曜日

中学校休校を決定する

休校するとなると厄介なことが沢山起こる。まず、中学校まで一貫して青葉台で学びたいと思っていた保護者をどう説得すればよいのか。何をどう言われたとしても、教師がいないのでは話にならないだろう。昨日説明会を開いたが、一番身にこたえたのが、ある子どもが学校が楽しいと毎日言っているので何とか存続してほしいという声だった。小学校は存続するけれども中学校の単科の教師がいないので存続することはできないと答えるのが精いっぱいだった。公立の学校を含めて理数系の教師が足らないと聞いている。どこもいないなら何とか考えて続けたらどうだろうかという意見もあるにはあるが、法令順守という声を聞いてしまったら、知らん顔して続けることはできない。

それに土浦一高が中高一貫教育を始めるということが確実になった今、我が校で中学校を続ける必要があるのだろうか。今度できる一高の中学校を凌駕するだけのエネルギーがあるのだろうか。幼児教育もそうだけれど、想像力と情熱がないと物事は成就しないから、それだけのバイタリティが職員集団にあるのだろうか。そうゆうものは努力して自分の中にストックできるものなのだろうか。

初等学部で教員採用の面接をしてきたが二人ともとても素晴らしいキャラを持っている。就職をうちの学校に決めてくれたらいい。その時に4年生のポスターの出来栄えを見てほしいというので、子どもたちの前で二つのポスターの出来栄えを評価してきたが、どちらも力作で子供たちの心の動きが動画になっているような気がした。こんな子供たちと別れなければならない私の方の気持ちは、からからに乾いてしまっている。自分の力のなさに今更ながら悔やんでいる。

幼稚園の子どもたちは、ただいるという存在だけで十分な癒しである。何をするにも真剣な眼で回りを圧倒してしまう。大人たちはこんな子供たちと真剣勝負はできまいと思う。威圧か脅迫でしか対応することができないのではないか。子どもと対等になるには、子どもの話をじっと聞いてあげて、時折大きくうなずいてあげる。そして別れ際には「ありがとう」とか言ってあげると子供は間違いなく成長することができる。

2019年10月18日金曜日

雨ばかり

台風19号は東日本とその以北に大変大きな被害を及ぼした。大雨の影響で川が氾濫し、橋が流され道路が分断され、道路が陥没したりがけ崩れがあったりとありとあらゆる被害を増大させた。死者も70名をはるかに越した。
先週の土日に予定していた幼稚園の運動会は今週の土日に延期をしたが、明日の天気もどうなることだか分からない。一応今日の夜半まで雨が降って、明日の朝型までには雨が上がり2時間遅れで運動会を開催するということにした。そのお暮らした時間で園庭の整備をし、子どもたちがにこにこと園庭で花開けばよいと勝手に思っている。どうかそうなってほしい。

初等中等学部の中等学部を休校にすることとした。初等学部だけでも汲々としていたのに、中等学部を運営するなんてとても考えられないと学校のバランスシートを知る人たちは言うだろう。どのように解釈されようが、私一人が誰にも相談せずに始まったことで学園理事会や評議委員会の皆様には何らの落ち度はない。学校を作るということは、幼稚園と違って規模も大きいし、かなりの資金が必要になるということは百も承知の上で始まったことだが、甘く見ていた。借金なしでできるほどの資産はないし、このまま進んでいくとすれば、他の私を支えてくれた多くの人たちを裏切ってしまうことになる。ここは恥を忍んで元に戻した方がよいとの決断だ。

初等学部の先生たちはよくやっているよということをよく耳にするけれど、現象的にそう見えても、結果的に支持を得られないということであれば根幹的なところを新鮮にしなければならないのではないか。一生懸命にやるというのは社会人であればだれでもどこの職場でもそのように生きていく。日雇いの職人さんなどは死に物狂いで仕事に従事しているだろう。でも一生懸命に生きていると必ず花開く時があるものだ。

明日はあおば台の運動会だ。雨が降っているけれど明日の朝は晴れているように願いたい。幼稚園の先生たちは空を見てじっとしている。

2019年10月9日水曜日

自分を生きる

私は小学校もやっている。発達心理は、自他意識が固まってくる大体10歳ぐらいまでは本格的にやったが、少年心理とか青年心理など複雑なものもある。中途半端な勉強だから小学校では通用しない。子どもたちはかわいいけれど、大きくなった子どもたちとの付き合い方がわからない。小中学校では私は教育者だとは思わない。それだけの力量がないということを私は知っているから。小中学校という義務教育にかかわらず教師というのは子供たちの発達に沿った全人格的なものに責任を持たなければならないだろうと私は思うけれども、そんな教師は皆無だろう。

保護者の多くは、人格的なことよりもまずは認知能力を高め教科のペーパテストの結果だけに翻弄されている。だから子供同士のいざこざがあっても結果だけを見てその原因や心の経過などに関心を持たない。だから子供を見誤る。身内に誤解されたまま生活を続けることは、子どもにとってとても辛いことだ。こんなことでは子供の自立は望めない。人間として、自分の頭で考える人間として育たないし生きていけない。

子どもの幸せを考えない親はいないというけれど、やっていることは真逆なことばかりを追求している。政府のやっている「親子引き離し政策」の子育ての考え方は間違っているといっても、保護者は我先にと働きに出かける。他人の家庭の経済状況など知る由もないけれど、戦後生まれで私たちは畑のさつまいもを失敬して生のまま食べたりしながら、その瞬間でも生き生きとして自分が生きていた。ある程度の経済力は必要だが、子どもの育ちを代償として支払わなければならないほどの経済力は今は必要ではないのではないか。そんな家庭の状況を政府が作っておいて、保育の質を高めるなどと逆立ちしたって無理な話だ。本来それを追求するのは保護者であるはずなのに、保護者は全く無頓着で、ただひたすらにわが子を長時間預かってくれる施設を探す。こんな世の中絶対おかしい。

2019年10月8日火曜日

これからの子供たちの育ち

日本の母親が殆ど外へ出て働くとなると、多分戦後の日本より多くの母親が働きに出ることになるだろう。私の生まれたところは農村のど真ん中だったから、どこの家でも夫婦や祖父祖母と言った手のあるものはみんな田んぼや畑に働きに出ていった。農家の人たちは仕事があったからいいけれど、サラリーマンの主婦だと仕事が殆どなかった。だからそのような家庭では学校から帰ると必ず母親がいた。何処でも経済的に貧しい家庭ばかりだったけれど、子どもたちは生き生きとしていた。服装にしたって継ぎはぎだらけの粗末なものであったけれども心豊かな生活であった。
農家の子供たちは祖父母が出迎えてくれるから、殆どの子供は祖父母になついていて、家族の話でも祖父母の話が多かった。あるテレビ番組で、海外で働くお父さんに会いに行く小学生を映しだしていたが、とても良い番組で親子の絆をしっかりとつなぎとめるものであったが、これはなにも海外でなくてもよい。
戦後働く者はみんな忙しかったが、農家の家では働いている姿を直接見せることができたから、親に対する感謝の念が自然にわき出していた。

これから親子の絆はどうなるのだろう。

幼稚園などでは一昔前は入園希望者に必ず「保育理念」なるものを聞かれたものだから、園内研修やら園外に出て研修を積んだものだった。だから自然に他園との切磋琢磨ができたものであったが、今はどうだろうか。子ども集めの手法が何よりも先に出て、建学の精神や理念などは隅の方に追いやられてしまっている感がする。保護者も理念などどうでもよく、とにかく園児を長く預かってくれる園を探すようになってしまった。国も幼児教育等何も考えていない。長く預かる園に補助金を多く出すなど、また新2号の子どもたちを作るなどしながら、今風のポピュリズムに走っている。その結果子どもたちの内面はどのように腐っていくのだろうか。すべとは言わないけれど、かなりすさんだ子供が増えるだろう。最初に述べたように、幼児期に必要なのは経済的に裕福なことではなく、家庭のぬくもりによって非認知能力が伸びていくものだ。

保育の質を高めながら、政府の子供子育てを遂行していくなんて至難の業である。保育の質を保護者が求めなくなった社会では、金銭欲だけが輝きを増す。そんな世の中で子供たちが幸せにはなれない。今の政府のやり方に憤懣やるせないのは私ばかりではあるまいと思う。そうあってほしい。

2019年10月4日金曜日

新しい小さな仲間

幼稚園には満3歳児保育というのがあって、満3歳になると翌年の4月を待たなくても幼稚園に入園することができる。その子供たちが10月から4人入園してきた。子どもたちはよく慣れていてすぐに幼稚園に同化している。上に兄弟姉妹がいるということもあるのだろうが、心地よい風が頬を撫でていくがごとく違和感を感じさせない。何よりもあくまでも透き通っていて透明感がある。まるで天使だ。

ルソーはエミールの中でこんなことを言っていた。
神の手から出たときは善であり、人間の手に委ねられると悪になる

人は子ども時代というものを知らない。子どもを大人に近づけることばかりに夢中になり、大人になるまでの子どもの状態がどのようなものであったかを考えようとしない。



2019年10月3日木曜日

無償化Ⅱ

それはどんなほころびだろう。
例えば政府は無償化は働く母親にとって救いの水だろうぐらいに思っているのだろうが、政府の思惑は国民総生産を上げる統計上の数字を動かすことなのだろう。国力を上げることは政治家にとって気持ちの良いことだし、大いに胸を張れるからだ。

家庭で子育てを許されなくなって、みんな外へ出て賃金を得ることを奨励している。子どもには1号2号という呼び名が与えられ、1号は専業主婦か母親の所得が著しく少ない家庭で、2号は共働き家庭ということになっている。共働きであれば家庭の収入は多くなると考えられるが、実際には1号家庭より2号家庭の方が補助率が高い。そのうえボールビィの3歳児までは親のそばで子供が育てられるべきであるというWHOへの報告書を、勝手にそれは神話に過ぎない(3歳児神話)といった声を声高らかに叫ぶ者もあらわれてきて、家庭の外へ出て賃金を得ようとする母親が増えてきた。
根底には子育てを楽しめない夫婦が多い。ということも言えるだろう。子育ては母親一人でやるには荷が重すぎるし、精神的にも肉体的にも苦痛になってくることが多い。だから幼稚園や保育所という施設がある。施設というのはあくまでも子育ての補助的な役割を担うもので、それがメインになっては本末転倒な話だ。父親の理解が重要だ。

国は認定こども園をあたか保育所施設として扱っている節がある。それならそれで幼稚園というのをやめてしまって幼児教育はすべて保育所に移行させればよい。認定こども園というのはそもそも4つの施設からなっていて、私のところは幼稚園型の認定こども園だが、当初理解したものと全く違っている。認定こども園がスタートした後に国の子供子育て会議というのが設置され、そこで子供を11時間保育するなども決められた。

保育の質を落とさずに改革が進んでいるというのが一般的な言い方だが、やっていることと言っていることに矛盾がある。11時間も保育を続けていく施設に無理がないなどということはない。保育者をたくさん入れてその上早番遅番などを決めて運営上はできないことはないが、幼稚園でやっている担任制はできなくなる。
しかも保育の質などは保護者はあまり気にしてないようで、長く預かってくれるかどうかということで幼稚園選びをするようになってしまっている。それで質の低下を招かないようになどということは空念仏であろう。一番の不幸な犠牲者は子供である。これは公が行う虐待であることに間違いはない。

私たちが久保田浩先生や杉原一昭先生から学んできた幼児保育と発達理解は素晴らしいものであった。私は学んできたものを極上のものであると信じているし、現実に幼稚園にきて私たちに手ほどきをしてくれたことを死ぬまで大切にしていきたいと思っている。だからあくまでも子供のためになる子供の幸せを願った保育を続けていく。これが私の恩師に向ける姿勢である。

2019年10月2日水曜日

幼児教育無償化が始まった

10月1日から無償化が始まった。認定こども園などはすでに各市町村の管轄になっているようなので、学校事務としてどこをどのように変えていけばよいのかなど、大きく変化するようなことはない。が、各市町村の事務量は膨大なものになることだろうと推察できる。
何のために無償化をするのかというと、社会保障の基盤をゆるぎないものにするということと、今まで年寄りに手厚くしてきたものを人口減の歯止めにしたいという思惑があるのだろう幼児教育に目が向いてきた。だがこれはうまくいくのだろうか。
幼稚園連合会なども、御用学者などを含めて無償化に賞賛を送っているが、幼児教育の内容については滅茶苦茶だ。文科省でまとめた幼稚園教育要領などは、あってないようなもので、有名無実化している。なぜならば幼稚園教育が保育所化に移行しているからだ。

政治家や学者は幼児教育の大切さを口にはするが、その重要性については理解していない。海外の書物を読み持論として多くの講演会などで発表などをする学者についてもうわっぺらなものが多い。自分で実験をしないからだ。政治家の言う幼児教育論などは論外で、ちょっとでもその論にフェイントをかけると脆くも崩れてしまう。そのような人たちが幼児教育の無償化を叫んでいたのだ。現実に無償化になったのだからそれはそれで喜ぶべきだろうが、その一方で大変なほころびもある。

能登半島

   能登半島でM7の巨大地震があるなんて夢想だにしなかった。正月に「昨日と同じ朝が来る」なんて不謹慎なことをかいてしまった。まさかそのあとで能登半島に大きな地震が来るなんて悔やみきれない。今日時点で死者数が202人となった。行方不明者がその200人を超えている。これからまだまだ...