2021年6月22日火曜日

東条英機という人

  東京裁判のやり直しを米国に進言すべきだ。戦争で負けただけではなく、日本人の精神までもずたずたにしてしまったのがあの裁判だ。戦後のどさくさに紛れて日本人らしからぬ取り決めをした日本の高官がいたはずだ。時の吉田総理は、GHQがほぼ作った新しい日本国憲法をなぜ承認したのか。第9条が世界に類を見ない平和憲法だなどと、戦後社会党が言い続けてきたことだが、米国に寄りかかっての米国あっての憲法である。米国が日本に駐留していなかったら尖閣や沖縄などは簡単に中国に取られてしまうのではないか。現に尖閣の日本領内に出入りしている中国海警を追い返せないではないか。沖縄近海で漁をしている日本の漁師は命懸けだ。日本がフイリピンのように「今は力がないから黙ってみているしかない」などと言ったら、かなり問題が顕在化するだろう。

 東京裁判で「人道上の罪」で死刑になった東条英機は何の言い訳もしなかった。リトアニアに逃げてきたユダヤの民6000人の命を救った杉原千畝のことはみんなよく知っていて有名をはせたけれど、満州に逃げてきたユダヤの民2万人をビザなしで入国させたのは当時の関東軍司令の樋口中将に許可を出した東条である。当然のことながら日独伊の三国同盟を結んでいたドイツから横やりが入ったが東条は「人道上のことである」とこれを突っぱねた。東条は終戦当時日本の総理であり陸軍大将であったので、一時は自殺を図ったが最後には絞首刑となって散っていった。日本には素晴らしい人物が沢山いたが、GHQによってほとんどの経歴を抹殺され現在ではほとんどが残っていない。

 先の野口中将は関東軍守備隊を任され、終戦時にはすべての武器を置いて降伏するように連合国からあったが、日本の民間人が全員無事に帰れるまで武器は放棄しないと言って、時折ロシア兵が襲ってきてもそれに応戦し追い返した。それは野口中将の「日本人を守る」という強い信念があったからである。そしてその守備隊は全員が日本に帰ってきたという話を聞いた。その指揮官によってこうも違うのかと思う。

 話を前に戻して、東京裁判の「人道に対する罪」について。東条英機がその罪になるなら、東京大空襲の絨毯爆撃を指示した指揮官を明らかにしなければならない。一瞬のうちに民間人16万人を殺した原爆投下を許可したトルーマンは一体どんな罪になるのか。勝者による敗者へのいじめである。もう一度弁護士を入れて東京裁判のやり直しをお願いしたい。もっとも米国はベトナムに30万ドルの賠償金をまだ支払っていない。その理由は、5万人の戦没米兵の魂に申し訳ないということらしい。ベトナム人は何10万人殺されたのか。

2021年6月15日火曜日

生命力

  どろんこの中で体を横たえてけらけらと笑っている。何がおかしいのか、何が楽しいのかなんだかわからないけれど、腹を抱えて笑っている子もいる。泥の中からむっくりと起き上がって、子ども同士は顔を見合わせて笑っている。肩を震わせて笑っているから、きっと何か楽しいことを見つけたのかもしれない。

 2階のテラスにいると、下から階段を上がってくる女の子がいる。両手に大事そうにボールを持っている。そのボールを見てみるとボールの上に砂が山になって乗っている。その砂が崩れないように大切に両手で持っているのだ。それをどうするのかなとその行くへを追っていると、大きな滑り台のところへきてそのボールを滑り台に転がした。科学する心が芽生えているのだ。大人は経験の中でそれがどうなってしまうのかを知っているが、子どもは違ったことを期待していたのかもしれない。滑り台の実験で何を感じたのだろうか、聞いてみたい気もするけれど、子どもが感じたままをしっかりと胸の中にしまっておいた方が良いだろう。

 テラスから下の方に目をやって、あおば台の自慢の滝を見てみると、何人かの男の子が水に打たれながらキャッキャとしている。頭に砂遊びで使う鍋を置いたり(かぶったり)フライパンを置いたりして全く鉄兜のようにして遊んでいる。とても暑い日だからこの遊びも面白い。フライパンの奪い合いが始まったのかと思うと、なんと交代で使って遊んでいるではないか。仲間関係がいいなとにやっとしながらそう思う。

 子どもって意味もないのに一生懸命走る。何か目的があるのかと思うとそうでもない。ただ一生懸命に走っているのだ。しかしその目は真剣そのものだ。何かに一目散に向かって走っているようで、目的があるのでもない。ひたすらなその目に深い生命力を感じるのだ。高杉晋作が言ったそうだ。「面白くもない世の中を面白く」。楽しく素晴らしい人生を送ってほしいものだ。

2021年6月1日火曜日

生きるということ

  ただ空気を吸っていれば生きられると言うことではない。空気を吸って生きながらえているということは、何らかの使命に気づき、その使命をいかにして果たしていくかを追求していくことに価値がある。ただ長く生きればよいということでもないだろうと思っている。「長寿は人生最大の勝利」などとほざいているものがいる。その中身によるだろう。私の友人が言っていた。日本は長寿国でも、生命維持装置によって生かされている人が少なくはない。病気で寝ている本人は「もういい」と言って喉に差し込んである管を無意識のうちに取り外してしまう。すると看護師が来て、病人の手をベットに縛り付け自分の手で管を外さないようにしていくらしい。それが彼らの仕事だろうが、それで病人はいいのだろうか。残された家族がその痛々しさを見ていられなくなるけれど、「生命維持装置を外してください」とは身内に言えないだろう。お金の話をするのは不謹慎かもしれないが、それだけで月70万円以上かかったという。これが長寿大国の実態だ。

 久保田浩先生の本に今日のタイトルと同じ「生きるということ」という本があった。ウインドショッピングをしていた数人の女子学生が、その奥に飾られている花瓶の花を見て「わー!きれい!」と言ってその花に近づいて観る。それでもウインドゥからでは飽き足らず中に入ってその花を見に来たところ、花に近づいて匂いをかいでも、花に触ってみても何の感動もない「なーんだ造花か」と言ってそこを立ち去るといった何気ない描写であったが、幼児教育者の久保田先生がその表現をするところに含蓄がある。暗に偽物であっては人に感動を与えないということだ。幼児教育は小手先で子供たちを惑わせてはならない。本物志向で行かなくてはならないことを示してくれた。子どもに向かう時真剣に向き合うということだろう。教育者はかくあるべきだろう。

能登半島

   能登半島でM7の巨大地震があるなんて夢想だにしなかった。正月に「昨日と同じ朝が来る」なんて不謹慎なことをかいてしまった。まさかそのあとで能登半島に大きな地震が来るなんて悔やみきれない。今日時点で死者数が202人となった。行方不明者がその200人を超えている。これからまだまだ...