2023年7月26日水曜日

発達を理解すること

  私は政府の政策の中で労働者人口を増やし、年寄りでも子育て中の女性でも、働かないものに罪悪感を持たせるような政策は良くないと思っている。働く人口が増えればGDPは伸びる。そこにはブータンのような国民のしあわせの指標がない。政治家はGDPが伸びることが国民のしあわせだと勘違いしているのではないか。息つく暇もないほど働かされて、手元に残ったわずかな金銭で、必死になって幸せを演出しようとしている国民の姿が哀れではないか。そんな中で子ども達を立派に育てようともがいている若い夫婦の姿を見ていると、「そんなに頑張らなくても、幸せはその辺にいっぱい転がっているよ」と励まし一緒に考えてあげたいと強く思わずにいられない。

 私が小学校を立ち上げる前に、乳幼児を保育所に預けている費用について調べたことがあるが、当時役所の費用として0歳児は20万円を超えていた。1歳2歳と年齢があがると、その費用も減額されていたけれど、その金額を各家庭に差し上げたらいかがですかと提案したことがあったが、聞き入れてもらえなかった。各家庭に差し上げてもGDPに組み込まれるのにである。なぜこんな楽しい明るい政策が取り上げられなかったのか。それは幼児施設者側の問題であった。情けないことに、私は味方と思っていた者に後ろからから背中を撃たれたのだ。また聞きで直接聞いたわけではないけれど、私の提案は経営者側には全くうまみのない話であるということだ。むしろ経営を悪化させるということだ。

 日本人の日本人としての美徳の喪失の原因は、政治経済・マスコミ界の美徳の喪失が世の中を蔓延させた所為であろう。誰かのせいにするならば、GHQの「日本解体教育政策」にある。それに加担した当時の日教組にある。故安倍総理の経済を取り戻すのではなく日本古来からあった「美徳」を取り戻さなければならない。これは清貧の思想ではない。

 くどいようだけど、白昼堂々と銀座の宝石店に押し入り強盗を行うなど、一昔前にはとても考えられないことが起こっている。しかも捕えられている青年は全く普通の青年ではないか。そんな犯罪を犯すのにはかなり高いハードルを越えなければならない「汚れた悪魔のような決意」が必要だと思うが、それを超えてくる心理状態はどんなものなのだろうか。多少心理(発達心理)を学んだ者にとっては、幼児期に虐待を受けたりネグレクトを受けたものの深層には、避けがたい空しい空洞が残る。それは年齢を重ねるたびに癒されるものではなく、本人にも気づかれないうちに生涯残っていく。あるいは、本人は自分の行動について薄々と何が原因なんだということに気付いていて、懸命にその負の遺産と闘いながら毎日を過ごすものもいる。こんなことは100年も前から言われていることだ。冒頭に書いたように「働きすぎ」ではなく、振り返って子どもの目をじっと見つめる時間が必要だ。子どもが訴えていることがよく見えるよ。親子なのだから。

 

 

 


2023年7月24日月曜日

懐古趣味

  昔がいいと懐かしむことを懐古趣味というけれど、昔の何が良かったのか、昔と言っても百年も生きてきたわけではないので、先人からの教えや書物でしか知りえたものはない。ある程度限られた範囲でしか知りえないものだ。それも生きてきたほんの瞬間だけを投影することができる。その瞬間だけをつなぎ合わせたものを歴史というなら、多分どこかで間違ってる部分があるだろう。しかも歴史というのは時の権力者によって書き換えられてしまうから、真実は違うものかもしれない。そんなことを考えながらでも歴史書は面白い。そこには知りえない経験できない深遠なロマンがある。

 明治維新の幕府と薩長土佐の同盟軍が戦った時でも、江戸の町を戦火の渦に巻き込まれたくなかったという徳川慶喜の言い分が後から伝えられたが、慶喜が江戸に逃げ帰ったのは幕府が勝ち戦をしている時で、逃げ帰る理由など何もなかったのではないか。幕府の力が弱まってきたとはいえまだまだ官軍に勝つだけの力は備わっていた。しかも幕府には小栗忠順など有能な頭脳明晰な武士が大勢いた。一緒に同行した時の京都所司代松平容保の話も何も残っていないから、逃げ帰った動機には誰も触ることができない。当時の将軍が家光だったらまだ幕府は続いていただろう。―― そして明治維新が成し遂げられたけれど、いったい何がどのように変わったかと言えば、多少国際的になったということではないか。その礎になったのはペリーが浦賀へきてから、その交渉に当たった幕府の要人である。

 大政奉還を待たなくても時代はもうすぐそばまで来ていた。司馬遼太郎の時代小説はよくできていて歴史小説との境がないと言っていた歴史家がいた。歴史小説は歴史に忠実でなければならないが、時代小説は娯楽小説の域を出ないと言っている。時代小説があたかも歴史の真実であるようなことを書いてはいけないということだが、司馬遼太郎の龍馬伝や坂本龍馬を売り出した書物があるが、青少年にはよく読まれた小説であって知らぬ者はいないくらいだ。だが司馬遼太郎の小説は歴史書ではない。作家自身の創作の部分が多いということだ。事実をわざと隠している部分が多いという指摘がある。例えば長崎のグラバー邸と幕末の志士との関係だ。勤王党が幕府の見回り役から逃げてグラバー邸まで来ると、突如として消えていなくなってしまうという現象があった。しかしこれをはっきりと書き表している作家も少ない。

 私は普段力を出すことをしなければ息遣いが苦しく成ったりはしない。しかし速足で歩いたり、階段の上り下りには酸素の吸入が必要だ。主治医はなぜ飛行機には乗ってはいけないというのだろうか。究極の話で外へ出てはダメなんて言うような病気ってあるのだろうか。飛行機の中だって地上の気圧を1とすれば、飛行機の中の1万メートル上空の気圧はその0.78あるのだから、飛行機の中は快適なはずだ。どこへも行けないというのが悔しいではないか。私は檻の中にいる人間なのかと残念でならない。

 

 

2023年7月22日土曜日

中国は信頼するに及ばず

  独裁者習近平率いる全体主義国家の中国は、近隣諸国に対して勝手な振る舞いをしても悪びれる様子もなく、居直っている。近世代の歴史に残る戦争愛好者のベスト3は、スターリン・ヒットラー・毛沢東である。戦争愛好者というよりは多くの人々を殺戮した著名な人種だ。この中にプーチンも入ってくるかもしれない。この次に名を連ねるのはおそらく習近平であろう。

 JR東海に葛西さんという人がいた。旧国鉄からのJRマンだと聞いているが、この人が憤慨していた。新幹線の設計図を中国に盗まれたという。盗まれた側は川鉄とか川重とか言っていた。その会社は葛西さんの存命中はJR東海には入ってこれなかったという。なかなか痛快な話である。しかしこの話は一般のニュースにはなかった。民放もNHKもである。いつの間にか中国大陸を新幹線が走っているという具合だ。中国に忖度している政治家が流したのかと思っていたら、中国に盗まれたことが真実のようだ。ついこの前も日本にある産総研から中国人に機密を盗まれたという話があったが、何を盗まれたのか国民には明らかにされていない。誰のために秘密にしてあるのか。日本の政財界の中には中国に「おもねる」「忖度する」勢力があって国民に多大な物質的、精神的な損害を与えている勢力がはびこっている。

 彼らには言い分があって、戦前に中国には多大な迷惑をかけたという亡霊がそうだ。そして中国が1949年に独立してからも日本は中国本土の戦後処理やODAなどに多額の資金を投じている。その資金があって現在の中国があると言っても過言ではないが、エコノミストというのは金勘定ばかりしていて人間のしあわせの本質を知ろうとしないから、米国や中国経済に頼っている日本の姿しか映し出さない。これがいつまでたっても幸せになれない日本の姿であろう。しかも他国への戦後処理などどこの国がやっているのだ。国際法でも1952年にサンフランシスコ条約で日本が国連に加盟した時にすべて処理されている。中国に何ゆえにおもねるのだ。日本人の精神破壊である。歴史の証言者である石原莞爾(満州旧関東軍参謀)の弁明を聞きたいものだ。しかし彼はとうとう何もしゃべらなかった。満州で捕虜になった瀬島龍三も何もしゃべらない。

 新渡戸稲造の「武士道」の前に佐賀県鍋島藩に伝わる「葉隠れ」というのがあった。武士の究極の「美徳」を書いたものだと私は勝手に解釈しているけれど、もう半世紀に前に読んだ本で内容は克明に覚えていない。新渡戸の「武士道」は当時の先進国と言われている国の指導者の愛読書として読まれた本で、日本でも有名である。

 白昼堂々と宝石店に強盗に入る普通の青年がいることに驚きを隠せない。行動に移る前に思いとどませる良心の欠如とはいったい何なのか。学習塾を選ぶ前にやるべきことだろう。このようなことが白昼テレビで見られることにも驚きだが、レンズを回しているニュース番組の者もなぜ止めなかったのか。身の危険を感じたからであろうが、何台もカメラが回っていたなら誰かしら『やめろ』と言っても良かったのではないか。危害を加えられたら、後になって「余計なことだ」とか「馬鹿な奴だ」ぐらいにしか言われないという風潮に恐れることが先になってしまう。日本人はそのような意識の底辺の俗界に陥ってしまっている。ホームで線路に落ちた人を助けて犠牲になった韓国人がいた。彼を「馬鹿な奴だ」と日本人は言うのだろうか。政治経済、教育、マスコミ何をとっても日本人の「美徳」とは程遠い存在になってしまった。何とかしなければならないだろう。

 


2023年7月19日水曜日

CO₂が気象変動を起こしてる?

  CO₂が主な原因で異常気象をおこしてるというのは真実かもしれない。それだけで地球規模な異常気象をもたらせているのだろうか。ある物理学者は地球が太陽の周りをまわる公転の軌道のずれによって大きく寒暖の差が生まれると言っている。そのずれというのは太陽を回るときにほぼ円を描いているのか楕円なのかということらしく、楕円のふくらみを周回するとしたらふくらみの分だけ地球は太陽から遠ざかることになるから、その時には寒冷期とか氷河期になると言われている。その氷河期というのは、南極の地中深くいや地中とは言わなくて、氷柱200mぐらい掘り下げると200万年前の氷を観測できると言われている。そのアイスコアを研究している科学者曰く「氷河期は100万年続き次に令氷期が1万年続く」と「今が令氷期に差し掛かっているのではないか」と。人類は誰も生きていないから、真実かどうかはわからないけれど、科学者の言うことだから信ぴょう性はある。どこかの国の小学生だか中学生だか知らないけれど彼女の唱える地球温暖化よりもかなりの信ぴょう性がある。

 もし地球の公転や自転の問題だとしたら、CO₂の削減など無意味になるのではないか。地球の地軸が反転した証拠が見つかったという。誰もが知らないうちに北極と南極が入れ替わるなんてことが地球上ではあり得るのだ。かつてはフロンガスの使い過ぎでオーストラリアの上空にオゾンホールができて、そこから有害な太陽光が降り注ぎ皮膚がんになる人が大勢現れたという話があった。そしてフロンガスを使わないようにということで、フロンガスを使う冷房器具などは大きな迷惑をこうむったということがあった。もともと地球創世記のことを考えてみれば、カーボンニュウトラルなんてことは無理な話だ。海中に溶け込んだCO₂はどうなるのだ。

 プーチン大統領がウクライナに攻め入ったことだけで世界の食糧事情がひっ迫したというのは真っ赤な嘘だろう。爆発的な人口増によって世界の食料が足らなくなっているのは人口統計と食糧増産計画とのバランスをみれば、これから地球上で起こりうる危機について推測できるのではないか。インドが中国を抜いて世界一の人口を持つことになったが、その生活はどうだろうか。飢えで無くなる子どもたちが世界で1億5千万人もいるという。日本の人口よりも多いのだ。私たちがこれから注意深く見ていかなければならないことが山積している。


2023年7月17日月曜日

アイスクリーム

  ちょうど一週間前になるけれど、初等学部の近くを通る用事があったので「ガリガリ君」を買って学校へ行った。昼食が終わった後なので時間的にはとても良い時間だった。そこでみんなに配るために、校内放送のメインマイクを使って全学年に声掛けをした。マイクを手に取ってスイッチを入れると少し「がーがー」と音がする。その「がーがー」を聞きつけた生徒が私が来たのを察知して、マイクを握って何も話さないうちから職員室に少しづつ集まってくる。「青葉台初等学部のかわいいお友達にお知らせいたします。今日はとても暑いですので熱中症に十分気をつけて下さい。ところでガリガリ君を買ってきましたので用事のない方は職員室へ来てください」と言ってマイクを切るともうすでに長蛇の列ができている。

 こんなことができるのも青葉台ならではのことだろうが、普通の小学校のように大勢いたのではこんなことはできない。たかだかアイスをもらうのにも子ども達は真剣な顔をしている。誰もふざけたりなどしない。一生懸命に生きているんだ。なんとも素晴らしい姿ではないか。生意気なことは言わないし動作もしない。純朴さが漂ってくる。この素直さが人間形成の根幹になければならない。彼らには「良い人間になってほしい」と祈るばかりだ。

2023年7月8日土曜日

お泊まり会

  昨日から今日にかけて年長さんのお泊り会をやっている。年長になっても母親から離れられない子もいる。涙をいっぱい流しながら、ワーワーと思い切り泣いている。中には足をばたつかせて担任を困らせている子もいる。でも安心してください。母親との瞬間の離別が永遠のもののように感じているからであり、仲間と会話を交わしながら、「なんだ家に帰れば親はいるんだ」ということにすぐに気付く。そうなると泣いた子がすぐに笑顔に変わって、仲間と元気に遊びだす。子どもの成長というのはいつでも真剣勝負だから、そんな子供の様子を笑ってくれては困る。誰しも大人と言われている人もこのような経験を必ずしているし、この経験をしないと健全な大人になれないのですから。

 保育者は子ども達が寝ているそばで添い寝をする。薬の時間というのがあったり、トイレ時間があったり、それぞれだからぐっすりと寝るなんてことはできない。それでも年長になってこの時間はとても大切な時間だから、保育者全員が趣向を凝らして、子ども達が楽しめそうなパフォーマンスを準備して、子供たちも保育者も同じ気持ちになってこの時間を楽しみにしている。

 保育者は眠い目をこすりながら、しっかりと目を開けて頑張っている。私は年長さんに「頑張ってな」と言いに行っただけだ。何もできない。みんなに申し訳ない。体を少し動かすだけでも血中酸素をたくさん使うらしく、すぐにハアハアとなってしまう。筋肉をいっぱいつければ肺も丈夫になるからというけれど、筋肉をつけるのにはたくさんの酸素がいるではないか。

 あおば台のどんぐりハウスで「哲学カフェ」が行われた。初等学部の保護者が主催してくれたのだけれど、哲学というのは、「あるものをないといい」、「ないものをあるという」ようなものだと薄々気が付いてきた。さすがに主催者は日本哲学学会の会長も務め、東大の教授であったというだけあって、話し方がわかりやすいし、とてもフレンドリィなのがいい。とても楽しかった。テーマは「しあわせ」てどんな時感じる。

2023年7月3日月曜日

今のところの私の日課

 

 今のところの私の日課は、外に出ないで家の中に閉じこもっていることだ。これでは生きているか死んでいるのかわからない。たまに外へ食事に出かけたりするけれど、もちろん携帯の酸素を持参しているけれど、すぐに意気が上がってしまって息苦しくなってしまう。間質性肺炎は着実に進行しているようだけれど、意識ははっきりしているからブログは書き続けられる。

 幼稚園では鶏を飼っているから、主治医が行ってはいけないという。病院に行くたびに胸部のレントゲンを撮って主治医が説明してくれるけれど、いくら説明してくれても治癒しない病気なのだから、説明を聞いている本人は上の空だ。幼稚園の玄関にはツバメが一生懸命作った二つの巣がある。もうツバメの子供たちは巣立ったのだろうか。一時幼稚園の中で、ツバメの巣を取り払おうという議論があったようだけれど、それはやめてもらった。だから幼稚園にこっそり行く場合には玄関から入らないで給食室の方から入る。慣れている保育者が上履きをホールに持ってきてくれる。自分の幼稚園なのにまるで不審者だ。

 

 幼稚園や小学校の出来事を反芻して思い出している。中学校を作ったけれど今は休校している。校長が代わって、経営者も代わってゆとりがあって、子ども達に優しく接することができる人が現れた頃に、また始めたらいい。

 原点は幼稚園だから、前にも書いたが「発達理解」を十分に学び子ども達に同化し、それでいて決して流されないことが肝要だ。保育者と一緒に作った丸太の遊具が懐かしい。誰も文句など言わずに夜遅くまで作業をしていた。子どもへの愛情と、仕事への熱意がそうさせていた。あの頃はまだ第二幼稚園はできていなかった。私達はまさに保育者としての誇りを持っていた。気持ちだけは日本一の幼稚園だったのだ。

 

 もうあの頃の自分には戻れない。気力も体力もないからだ。だから口ばかり達者になって困ったものだ。幼稚園教育要領でも、小学校でも同じだが、「生きる力を育む」とあるけれど、「生きる力」とは簡単に言えば「生活力」のことだ。普段の生活から遊離した学問なんて言うものはない。身近にある生活を大切にすれば生きた学問になる。座学は研究者になってからでいい。だから教師も保育者も、子ども達とともに、目的意識を持って生きていかなければならないのだ。

 

能登半島

   能登半島でM7の巨大地震があるなんて夢想だにしなかった。正月に「昨日と同じ朝が来る」なんて不謹慎なことをかいてしまった。まさかそのあとで能登半島に大きな地震が来るなんて悔やみきれない。今日時点で死者数が202人となった。行方不明者がその200人を超えている。これからまだまだ...