2023年7月24日月曜日

懐古趣味

  昔がいいと懐かしむことを懐古趣味というけれど、昔の何が良かったのか、昔と言っても百年も生きてきたわけではないので、先人からの教えや書物でしか知りえたものはない。ある程度限られた範囲でしか知りえないものだ。それも生きてきたほんの瞬間だけを投影することができる。その瞬間だけをつなぎ合わせたものを歴史というなら、多分どこかで間違ってる部分があるだろう。しかも歴史というのは時の権力者によって書き換えられてしまうから、真実は違うものかもしれない。そんなことを考えながらでも歴史書は面白い。そこには知りえない経験できない深遠なロマンがある。

 明治維新の幕府と薩長土佐の同盟軍が戦った時でも、江戸の町を戦火の渦に巻き込まれたくなかったという徳川慶喜の言い分が後から伝えられたが、慶喜が江戸に逃げ帰ったのは幕府が勝ち戦をしている時で、逃げ帰る理由など何もなかったのではないか。幕府の力が弱まってきたとはいえまだまだ官軍に勝つだけの力は備わっていた。しかも幕府には小栗忠順など有能な頭脳明晰な武士が大勢いた。一緒に同行した時の京都所司代松平容保の話も何も残っていないから、逃げ帰った動機には誰も触ることができない。当時の将軍が家光だったらまだ幕府は続いていただろう。―― そして明治維新が成し遂げられたけれど、いったい何がどのように変わったかと言えば、多少国際的になったということではないか。その礎になったのはペリーが浦賀へきてから、その交渉に当たった幕府の要人である。

 大政奉還を待たなくても時代はもうすぐそばまで来ていた。司馬遼太郎の時代小説はよくできていて歴史小説との境がないと言っていた歴史家がいた。歴史小説は歴史に忠実でなければならないが、時代小説は娯楽小説の域を出ないと言っている。時代小説があたかも歴史の真実であるようなことを書いてはいけないということだが、司馬遼太郎の龍馬伝や坂本龍馬を売り出した書物があるが、青少年にはよく読まれた小説であって知らぬ者はいないくらいだ。だが司馬遼太郎の小説は歴史書ではない。作家自身の創作の部分が多いということだ。事実をわざと隠している部分が多いという指摘がある。例えば長崎のグラバー邸と幕末の志士との関係だ。勤王党が幕府の見回り役から逃げてグラバー邸まで来ると、突如として消えていなくなってしまうという現象があった。しかしこれをはっきりと書き表している作家も少ない。

 私は普段力を出すことをしなければ息遣いが苦しく成ったりはしない。しかし速足で歩いたり、階段の上り下りには酸素の吸入が必要だ。主治医はなぜ飛行機には乗ってはいけないというのだろうか。究極の話で外へ出てはダメなんて言うような病気ってあるのだろうか。飛行機の中だって地上の気圧を1とすれば、飛行機の中の1万メートル上空の気圧はその0.78あるのだから、飛行機の中は快適なはずだ。どこへも行けないというのが悔しいではないか。私は檻の中にいる人間なのかと残念でならない。

 

 

能登半島

   能登半島でM7の巨大地震があるなんて夢想だにしなかった。正月に「昨日と同じ朝が来る」なんて不謹慎なことをかいてしまった。まさかそのあとで能登半島に大きな地震が来るなんて悔やみきれない。今日時点で死者数が202人となった。行方不明者がその200人を超えている。これからまだまだ...