過去を振り返れなければ今の自分はいない。個人の力なんて全く弱いものだ。いやそうではないかもしれない。強靭な肉体と精神力を持ち、その上機知に富んだ、人類愛に富んだ人間がいるかもしれない。あくまでも個人の感覚で話を進めるけれども、1代で大きく仕事をなした人や名誉ある仕事を成した人などは、すべて脇役や、影となって応援した人が必ずいる。本当はそういった人たちが表に出て称賛されるべきだろうけれど、世の中は目に見えた人しか認知しないから、世の中の評価というのはでたらめなところがある。
私の知り合いに人々の相談に乗ってあげて親しまれている人がいた。勿論経済的に裕福ではなかったが、金銭面のことでも相談に乗ってあげていた。その原資はどうしたのかと言ったら、彼の友人の中からお金に余裕のありそうな人に相談をしてまかなうというやり方であった。、現在の大人社会の中では稀有な存在であったから、多くの人たちが相談に訪れていた。奥さんは大変苦労したのではないかと推察するけれど、案外そうでもなかった。その人からおなかがすいたとかいう話は聞いたことがなかったし、私は一緒に食事をしたこともなかった。相談に来るというだけでその人は満足していたようだ。金銭的な相談が多いけれどもどのような解決を試みていたのか私は知らない。その人は亡くられたけれども一生を通じて人生にどんな感想を持っていただろうか考えるところがある。
「衣食足りて礼節を知る」という言葉は一見的を得ているようだけれど、あくまでも大人社会に通用する言葉だ。ルソーがエミールの中で言っていた言葉がある。「神の手から出た時には善であり、人間の手に委ねられると悪になる」こんな言葉が有名になって独り歩きされると悔しいけれど、非常に宗教的な言葉であることには間違いない。幼児期というのはルソーの言うように神の手から離れてまだ間もない時期だ。だから貧富の差もなければ,善悪も混とんとしているので精神的に自由だ。人間にとって人間らしからぬ時代であるだろう。他から見るといい時代に見えるけれども、彼らにとっては不自由なのではないかな。
明日からは幼稚園が2学期として始まる。初等学部は2学期制だから夏休みもそこそこにして授業が始まっている。初等学部の子は素直で真面目によく人の話を聴く。だから一般的大人からするととても可愛いだろう。自習の時間などを参観したけれども、よくみんな教師がいるとかいないとかにかかわらずよく学習に打ち込んでいる。私などはよくサボっていたけれど。幼稚園はそんな評価はしない。よく元気に遊んでいるかが大切なポイントだ。仲良し友達は何人で来たかななどは社会性の大きな第一歩。