2020年12月14日月曜日

久遠返せば

  久遠返せば恥ずかしいことばかりだ。幼少のころは近所の子どもたちと日が暮れるまで遊びまわっていた。遊びまわるというのは、定住区域を少し離れて探検家のつもりでいたのかもしれない。定住区域というのはだれが決めたわけでもないけれども、なんとなく子ども同士の中で合意されていた線引きがあったように思う。動物のような縄張り意識みたいなものかもしれないが、動物はそれを生きる糧として守っているけれど、幼児期の私たちも生きる糧としての無意識の縄張りなのかもしれない。よくやったのは近くの神社の大きな木の上に住処(すみか)を作ることや、いたずらと言えばあちこちに穴を掘って落とし穴を作ってその見張りをやっていることがとても楽しかった。その落とし穴に落ちた大人が本気になって怒って追いかけてきたときには本当に恐ろしかった。家の中に入って息を殺して怒りが収まるまでじっとしていたのを今でも覚えている。今でも思い出すと、心臓がチクリとする。

 もう半世紀以上前のことだから、思い出も途切れているけれども、みんなが貧乏だった。着ているものも殆どが粗末なもので、袖はいつでも鼻水を拭くのでピカピカのかぴかぴだった。そんなことを気にする子どもたちは誰一人いなくて、意気揚々としていた。子どもにとっては遊ぶ仲間と時間さえあれば十分すぎるほど幸せなものだ。誰一人として何が食べたいとか食べ物について夢心地のような話をする者はいない。もっともそのような経験もなかったから仕方がなかった。

 今の子どもたちは私たちのころと違ってモノがあふれている分だけ不自由なのかもしれない。ものを考える前に答えを出されてしまってはこれほど面白くないものはない。木の上に住処を作るのはとても危険で何人かはリタイヤした者もいる。それでも続けたいと思って最後までやり通すのはどんな気持ちなのだろうか。誰にも言われたわけではない。興味の継続なのだ。興味を持つことがいかに物事を成就させてくれる力になることか。それが大人になってからも継続されるものだということは保障されないが、思いが残っているということだけでも多少人生の豊かさに寄与しているのではないか。

能登半島

   能登半島でM7の巨大地震があるなんて夢想だにしなかった。正月に「昨日と同じ朝が来る」なんて不謹慎なことをかいてしまった。まさかそのあとで能登半島に大きな地震が来るなんて悔やみきれない。今日時点で死者数が202人となった。行方不明者がその200人を超えている。これからまだまだ...