2022年9月29日木曜日

戊辰戦争最後の闘い

  最後の戦いは函館の五稜郭である。五稜郭での生々しくも凄絶な戦いを書き表した歴史小説はない。時の官軍が書き残すことをためらったのではないか。明治維新は薩長土肥によって成し遂げられたということは歴史書にもあるけれど、これは戦争だからきれいごとばかりではない。白虎隊で有名な会津藩や最後まで戦い抜くという米沢藩の現在の地元の人たちには官軍の評判は非常に悪い。それは日本人同士でありながら武士道に悖(もと)る戦い方をして、あまりにも礼儀に欠ける官軍の戦いだったからである。司馬遼太郎の小説で幕末を感じていたら大きな間違いである。あれは歴史小説の様で時代劇の私小説である。当時小栗忠順という人物が幕閣にいたが、この人は今でいう大蔵大臣や外務大臣、警視総監を一手に引き受けて幕府のために働いていたけれど、官軍が江戸に近づいてくるときに海からの艦砲射撃と陸軍による迎撃作戦を将軍に申し上げたところ、却下された挙句首になってしまった。米国との不平等条約を正そうと動いていた頭脳明晰な武士であった。残念なことにこの人は土佐の当時16か17ぐらいの土佐の百姓侍にいとも簡単に殺されてしまった。

 徳川慶喜については大阪から江戸に逃げ帰ってしまったことに様々なことを言われているけれど、幕府が負けるような戦いではなかった。一緒にいた松平容保も何故大阪から江戸に帰ってきてしまったのか、将軍の言葉を言ってはいない。日本の侍をおさめる器量に欠けていたのだろう。時代の流れは薩長土肥によって時代を変えなくとも、外国船が日本近海をうようよしていたので、開国をしなければならなかったろう。開国と書いたけれども、日本は対外的に鎖国をしているといったことはなく、外国の船を受け入れていた。そもそもポルトガルやオランダの商戦が、日本人をさらって船底へ押し込めて人身売買をしたことに、ときの太閤秀吉が怒ってオランダ人宣教師を殺し、外国商船を一つの港に決めたことから鎖国なんて言われているけれど、太閤秀吉は立派だった。

 五稜郭は幕府軍最後の戦いとなったが、官軍は武士道を重んじるものは少なく、五稜郭の中は屍を埋められることもなく野ざらしにされていたという。戊辰戦争はこれで終わったが、薩長土肥のやり方には批判があったが勝てば官軍である。幕府側の有能な人材を残すことができたなら、もっと素晴らしい明治維新ができたかもしれない。

能登半島

   能登半島でM7の巨大地震があるなんて夢想だにしなかった。正月に「昨日と同じ朝が来る」なんて不謹慎なことをかいてしまった。まさかそのあとで能登半島に大きな地震が来るなんて悔やみきれない。今日時点で死者数が202人となった。行方不明者がその200人を超えている。これからまだまだ...