第二次世界大戦の筆頭戦勝国アメリカはその戦争責任を問うべく東京裁判を起こした。私はこの東京裁判の記録という分厚い本を持っている。これには「平和に対する責任」とか「人道に関する責任」ともう一つ何かがあったが思い出せない。戦争行為がそもそも平和をぶち壊す行為だから、最初に仕掛けたものに責任があるだろう。しかし戦争というものは戦勝国に勝手に秩序を変えられてしまうからその真実はわからない。ドイツナチスを裁いたニュールンベルグ裁判の東京版だが、どちらにしても検察側の言い分は横柄で横暴である。
同じ検察官であるインド出身の法律家は「これは戦勝国が敗戦国を罰する裁判で公正な裁判は認められない」と言って席を立って本国へ帰ってしまった。そして日本の被告人の弁護に回った米国の弁護士は「人道に対する責任を問うなら、私は広島や長崎に原爆を落とすように計画した者も命令した者の名前を知っている」と訴えたが、なんとこの時の日本語に通訳しているときに何度か停電になって声が途切れてしまった。こんな卑劣なことを平気でやる裁判だから茶番に過ぎない。
もっとも日本の弁護士が先般と言われた軍人の弁護をとうとうとしているときに、首席検察官が途中でその弁を遮って「我々はあなた方の言い訳を聞きに来たのではない。あなたたちを罰しに来たのだ」と堂々と言っている。それが民主主義の国の代表者の言葉なのか。たぶん日本側の弁護士の正当性に業を煮やした悪徳代官の裁きである。米国は日本人の戦い方に恐れをなしてしまって、絶対に日本は戦争をできないように米国の手で憲法第9条を作った。そして日本人が誰も自虐史観を持つように、東南アジアの隅々に日本が戦時中してきたというねつ造に近い戦争記念館を作った。
先の被告人弁護に回った米国の弁護士が言っているのは、その名前はルーズベルトとトルーマンであろう。非戦闘員を殺してはならないという戦争の掟を米国大統領が犯してしまったのだから、戦争の傷がいえた今こそ米国は広島長崎に謝罪すべきだ。謝罪したからと言って30万人が生き返るわけではないが、米国は罪を認めるべきだろう。ヴェトナム戦争で彼らは初めて敗戦を知った。ヴェトナムに対する賠償金を30万ドルと決めたが今でも支払っていない。それは自国の英霊に対して申し訳が立たないと言っている。ヴェトナムで何百万人も殺して、自国の5万人のために支払えないということだ。
どうもトランプというのは変わった人物ではなくて、米国を代表する鼻持ちならない人物なのかもしれない。中には良い人もいるというのは当たり前の話だが、国を代表する人がこのような人では困る。米国民主党の中に「彼を弾劾にかけるべきだ」という人がいて、すかさずトランプ「そうなったら株価が大暴落するだろう」と言って話は収まったらしい。正邪よりも経済が優先するのだ。日本はこれでいいのだろうか。
2018年8月28日火曜日
2018年8月27日月曜日
夕涼み会
毎年行っている夏の行事だけれど、私たちは仕事としてちょっとした行事に取り組んでいるのだけれど、お父さんたちはせっかくの休みに幼稚園に出てきて暑い中を焼きそばなどを作ってくれている。子どものためだとはいえ、もっと涼しい時にしてくれと言いたくなるだろうな。みんな浴衣に着替えて小さな皇子様にお姫様のようで、ちょっと違った雰囲気で子どもたちと一緒にいるのが楽しい。全く子どもたちの世界は別世界だ。
あまりの暑さで息を吸う空気でさえ焦げ付いているようで、なんだか焦げ臭い。朝起きたらこんがりと焼けているようでは困るので、寝る前には部屋の温度を設定して寝る様にしているのだが、起きるときには必ず冷房がきれている。そして『暑い暑い!』と言って置きだして来る。子どもたちはいつもやることがあるから、外の暑さなど気にならないのだろうか。周りの大人が『暑い暑い!』と言っているからそのように感じてしまうのではないか。とにかく外で遊べるのが楽しみで、雨さえ降ってくれなければとても楽しい一日の始まりだ。私はそうだった。
とにかく異常気象の始まりなのだろう。気象庁でも今までに経験したことのない大雨とか土砂災害だとか大風の話をする。今までに経験のないという前代未聞の状況を伝えるくらいだから、気象庁でもその形容にほとほと困っているのだろう。いくら警告をしても人間どもが聞き訳がないものだから、とうとう地球が怒りだしたと思ってもよいだろう。米国のトランプは何の根拠も示さないまま気象異変に関するパリ協定を破棄して米国は脱会するという。あの人の一言で世界中が右往左往しなければならない。なんといっても世界一の軍事国家だからどうにもならない。どのくらいすごいかというと、米国一国の軍事力で他の国の合計より優るのだからもの一つ言えない。
外交はすべて軍事力を背景にした圧力外交で、正義がどうのというような青白いものではない。正義がどうのこうのと言っていると、そのうち日干しにされて声も出なくなってしまう。私もこの歳になってやっと分かってきたけれど、だから私にはもう訴えていくだけの気力もないけれど、せめて子どもたちの世界を守っていこうと思っている。それはどんな世界かというと、何も難しいことはない。子どもたちがいつもにこにこしていて豊かな世界だ。
あまりの暑さで息を吸う空気でさえ焦げ付いているようで、なんだか焦げ臭い。朝起きたらこんがりと焼けているようでは困るので、寝る前には部屋の温度を設定して寝る様にしているのだが、起きるときには必ず冷房がきれている。そして『暑い暑い!』と言って置きだして来る。子どもたちはいつもやることがあるから、外の暑さなど気にならないのだろうか。周りの大人が『暑い暑い!』と言っているからそのように感じてしまうのではないか。とにかく外で遊べるのが楽しみで、雨さえ降ってくれなければとても楽しい一日の始まりだ。私はそうだった。
とにかく異常気象の始まりなのだろう。気象庁でも今までに経験したことのない大雨とか土砂災害だとか大風の話をする。今までに経験のないという前代未聞の状況を伝えるくらいだから、気象庁でもその形容にほとほと困っているのだろう。いくら警告をしても人間どもが聞き訳がないものだから、とうとう地球が怒りだしたと思ってもよいだろう。米国のトランプは何の根拠も示さないまま気象異変に関するパリ協定を破棄して米国は脱会するという。あの人の一言で世界中が右往左往しなければならない。なんといっても世界一の軍事国家だからどうにもならない。どのくらいすごいかというと、米国一国の軍事力で他の国の合計より優るのだからもの一つ言えない。
外交はすべて軍事力を背景にした圧力外交で、正義がどうのというような青白いものではない。正義がどうのこうのと言っていると、そのうち日干しにされて声も出なくなってしまう。私もこの歳になってやっと分かってきたけれど、だから私にはもう訴えていくだけの気力もないけれど、せめて子どもたちの世界を守っていこうと思っている。それはどんな世界かというと、何も難しいことはない。子どもたちがいつもにこにこしていて豊かな世界だ。
2018年8月23日木曜日
トレンドだといっても
これからの幼児教育のトレンドだといわれても私にとっては波高しだ。保育内容が全く変わってしまうということではないけれど、行政側は幼児を持つ親に対して半ば強制的に社会復帰だと称して働きに出したいらしい。家の中で幼児と共にゆったりと子育てをすることが許されないらしい。幼稚園や保育所に通わされている保護者に対しても「その間は暇なんだから働きに出てはどうだ」と言わんばかりだ。行政がやさしくない。全日の連合会で家庭内で子育てをしている保護者にも助成金を出すようにお願いをしても、それは却下されたようだ。なぜなのかその理由は聞いてはいないが、私の仲間が言うには家庭にこもる母親を外に出すのが国策だからと言っている。
まったく観点が違うのではないか。母親を外に出せばそれなりに給料をもらうから、全国的に見て企業の支払い総量が増えるけれども、それは幼児の発達と何か関連しているのか。そんなことはあるまい。GDPたかGNPたかを増やせばそれなりに国の力量が評価されるだろうけれども、それは国民の豊かさとは全く関係ない。政治家の後ろについてくる無数の国民の将来を見ないで、力ずくで行政を推し進めようとする感覚は戦前の軍部の横暴さに似たり寄ったりだ。国力すなわち国民の幸せというのは幻想にすぎないことに気が付くべきだ。権力者にはそれがわかっていてもどうにもならないというのがあるから、それが不思議だ。今に裸の王様になってしまうだろう。
国会にいる政治家の質というのは国民の質と同位にあるといった人がいた。その通りだと思うから、そうでないように私たちも努力しなければならないと思っている。日大の問題やボクシング協会の問題。東京医科大学入試の問題など、きっと普通に暮らしている庶民には我慢のならない不正に見えるだろう。そんなことが世の中にはいくつも潜んでいる。それも「モリカケ」と同根にあることは確かだ。終戦時の石原莞爾のようなすっきりとした人格者が現れてくれないかと切望している。
「ちっとも面白くない世の中を面白く生きよう」と仲間に働きかけてその通りに生きた高杉晋作は今の総理と同郷である。生きていれば今の世の中をなんと思っているだろうか。為政者、特に権力を一手に握った者は、自分だけ面白くしないで国民を面白く生きさせてくれなければならないだろうが。
初等学部では3・4年生が校内のキャンプ場でキャンプをしている。別に心配はしていないが、みんなの顔が見たくなって食事のときにちょっと覗いてきた。まったく屈託がなくキャッキャっと騒いでいる。世の中の穢れや泥くさいことはあえて言わなくてもいいだろう。きれいなものはきれいに生かせて守ってやるべきだろう。
まったく観点が違うのではないか。母親を外に出せばそれなりに給料をもらうから、全国的に見て企業の支払い総量が増えるけれども、それは幼児の発達と何か関連しているのか。そんなことはあるまい。GDPたかGNPたかを増やせばそれなりに国の力量が評価されるだろうけれども、それは国民の豊かさとは全く関係ない。政治家の後ろについてくる無数の国民の将来を見ないで、力ずくで行政を推し進めようとする感覚は戦前の軍部の横暴さに似たり寄ったりだ。国力すなわち国民の幸せというのは幻想にすぎないことに気が付くべきだ。権力者にはそれがわかっていてもどうにもならないというのがあるから、それが不思議だ。今に裸の王様になってしまうだろう。
国会にいる政治家の質というのは国民の質と同位にあるといった人がいた。その通りだと思うから、そうでないように私たちも努力しなければならないと思っている。日大の問題やボクシング協会の問題。東京医科大学入試の問題など、きっと普通に暮らしている庶民には我慢のならない不正に見えるだろう。そんなことが世の中にはいくつも潜んでいる。それも「モリカケ」と同根にあることは確かだ。終戦時の石原莞爾のようなすっきりとした人格者が現れてくれないかと切望している。
「ちっとも面白くない世の中を面白く生きよう」と仲間に働きかけてその通りに生きた高杉晋作は今の総理と同郷である。生きていれば今の世の中をなんと思っているだろうか。為政者、特に権力を一手に握った者は、自分だけ面白くしないで国民を面白く生きさせてくれなければならないだろうが。
初等学部では3・4年生が校内のキャンプ場でキャンプをしている。別に心配はしていないが、みんなの顔が見たくなって食事のときにちょっと覗いてきた。まったく屈託がなくキャッキャっと騒いでいる。世の中の穢れや泥くさいことはあえて言わなくてもいいだろう。きれいなものはきれいに生かせて守ってやるべきだろう。
2018年7月27日金曜日
原点に戻ろう!Ⅱ
それでどうするのか。認定こども園は私が県の係官と納得した話し合いとだいぶ違うようだ。それもそのはずで、県は認定こども園の認定を急ぐあまり見切り発車してしまったのだ。幼稚園型認定こども園は現在の幼稚園のやり方を踏襲するということを確認したうえで申請をしたにもかかわらず、その後に国の方で子供子育て会議ができて、そこで決められたことを後追いの形で現場が移行していくという大変まれなやり方になってしまった。何を焦ってそうなったのかを考えてみると、行政の待機児童問題のただ一点だけである。
保育行政の中で、幼児期をどうしようかなどと真剣に考えているのは文科省の幼稚園課のみで、政治家を含めてそれ以外には真剣に取り合わない。だから現在幼稚園教諭や保育士に手厚い補助が出ているようだけれども、これは一過性の問題でこの制度ができて5年もすればまた過去に戻ってしまう。そのときにあたふたとしないようにこれから準備をしなければならないだろう。
原点に戻ろうということは、わたくしたちが幼児教育に熱く燃えて寝食を忘れて語り合った時を思い出し、新鮮な気持ちで子供たちの目を見て保育をしていこうということだ。幼稚園教育要領はとても立派なものである。これを理解し現場で共有できる教師のスキルアップを願いあおば台独自の保育をやっていこうとするものだ。だから認定こども園を返上して幼稚園をやっていこうと決心した。
2018年7月24日火曜日
原点に戻ろう!!
幼稚園教育要領は、『健康』『環境』『人間関係』『言葉』『表現』の五つの領域に分かれ、この領域を碁盤の目のように上手に編み込んでいく。これをどのように日常の生活に浸透させたらよいのか、保育者が最も苦心する保育力の問題である。まだある。これだけではない。これらを編み込んだ先には何を保育者は狙っているのかという大命題がある。「真摯な態度で学びに向かう力が必ず身についてくるのか」ということである。それだけではない。『人間性は』それでよいのかという自問自答がある。
この幼稚園教育要領が認定こども園に無視されている。いつか私はボウルビーの三歳児神話という話をしたことがある。『幼児教育の精神衛生』という本の中に「母性的養育の喪失は例外なく身体的、知能的、社会的に遅滞し、肉体的精神的不健康の徴候を示す」というのがある。ボウルビー博士の発表後に幼児期の発達が将来に多くの影響を及ぼすという医者からのメッセージが世界中に広まった。日本の平井信義先生が書いた「精神衛生」は幼児教育専門家や発達理解を学ぶ教育者の副読本にもなった。
しかしそれは事実とは異なり「神話に過ぎない」として葬り去ろうとしたのが当時の日本の厚生省で、そこから「三歳児神話」として定着した話だ。ボウルビーという人は、第二次大戦後の荒廃とした焦土にいかにして子供たちが生活をしていくのかということを、WHOから依頼されて欧州を起点として調査した英国人だ。しかし幼児教育者はだれもがこれは事実として神話だと思っている人はいない。現場で発達理解を学んでいる教育者はなおさらのことである。
だから言いたいのであるが、生後3か月になると母親は働いて保育所に預けることができるのが今の法律である。それを盾にとって、母親を家庭から追いやって社会に出すような政策はどうしても容認できない。母体にも影響するであろうし、保育所に預ければ自治体によって異なるけれども0歳児については最低19万円の保育料を保証しなければならない。ならばその分を家庭に還付したらどうなのか。そのほうが子供も家庭も幸せである。
急に保育の現場に補助金をばらまき、いかにも幼児教育に理解を示しているようだけれども、それは事実と違う。手厚い補助だと言っているけれども、やっと普通の生活費が支給されるようになったというのが我々の本音である。今までは保育者の犠牲と保護者の理解と協力によって何とか運営してきただけの話だ。幼児教育には子どもには投票権もないしあまり政治家の票に結びつかないから、政治家の関心もいまいち鈍い。まだまだ書きたいけれど、読む人も私も疲れてきたようだ。
急に保育の現場に補助金をばらまき、いかにも幼児教育に理解を示しているようだけれども、それは事実と違う。手厚い補助だと言っているけれども、やっと普通の生活費が支給されるようになったというのが我々の本音である。今までは保育者の犠牲と保護者の理解と協力によって何とか運営してきただけの話だ。幼児教育には子どもには投票権もないしあまり政治家の票に結びつかないから、政治家の関心もいまいち鈍い。まだまだ書きたいけれど、読む人も私も疲れてきたようだ。
2018年7月23日月曜日
初等中等学部の給食
久しぶりに給食を作った。というのも賄いのおばちゃんが何かの都合で1週間北海道へ行ってしまったから、残ったおばちゃんたちと一緒に焼きそばを作ることになった。これは誰にでもできるし、初等学部には大きな鉄板があって、お好み焼きやら焼きそばなどアウトドアで作る食べ物は殆どできる。焼き物は校長が主体となってへらを使ってやってくれている。この暑いのに汗をびっしょりかいて黙々とへらを動かしているので、教師が授業の合間にかわるがわる来て手伝ってくれているが、校長は微動だにしないでいる。どうも鉄板焼きが好きらしい。
おかわり委員会と言うのがあって、みんなが好きなものを上級生が先におかわりをして食べてしまうから、みんなが平等に食べられるようにという趣旨のもとに小学3年生が主体で委員会が構成されている。しかしよく見てみると、最初の盛り付けだけはみんな平等であるけれど、次のおかわりになるとがぜん中学生男子が早く、小学生低学年はおいてけぼりである。低学年の子供たちと一緒に食べていたので、子どもたちに『おかわりできなくなっちゃうよ』というとにこにこしていてそれには答えてくれない。案の定子どもたちが一杯目が終わるころには中学生は3杯目などというのがいて、到底2杯目が食べられない。それでも子どもたちは不服を言わないで満足しているようである。
ここの子どもたちの発想は鋭角的ではない。最初のころは鋭角的に鋭くぶつかって来た子もいたけれど、見ていても見ぬ振りして子どもたちが自ら気付いてくれるまで待っていた。幼稚園の子どもたちと共に暮らしてきたせいか『待つ』と言うことが容易に出来るようになった。1カ月ぐらい過ぎるころには彼の言葉も柔らかくなって好感のもてる少年になっていった。基本的に優しい両親に育てられているから、自らの違和感を発見し自らを正す力も備わっている。いくら突っ張っても柔軟に吸い取ってあげるから、周りの子とすぐに同化できる。
たまに子どもたちと一緒に何かをするというか、この世界に入っていくことがよいと感じる。私もここで校長をしていた時があるから子どもたちとはすぐに親しみ深く話ができる。途中からこの学校に来た子どもたちが生き生きとしているのはここの学校のシステムは勿論のこと、子どもたちの寛容さがそうさせている。教師も『待てる』寛容さを持っている。若いのにすごいことだ。
昨日の幼稚園の話だけれど、政府がやっている『子ども子育て』について、あのやり方で本当に子どもたちが幸せになるのかというと疑問だらけである。昨日も書いたけれども女性の社会進出などと今から始まることではなく、女性は子育てということですでに一人の子供を育てるのに月75万円の社会貢献をしている。それを忘れていることは女性を軽んじていることではないか。なのに家庭で育児をする女性には手当は無料で、幼稚園や保育所に預ける家庭には保育料が無償になるというのは容認できない。むしろ家庭で育児をしている母親に手厚くするべきだ。子どもにとってこれほど素晴らしい保育はない。
保育者がどれほど偉そうなことを言っても『母』に勝てるわけがないのだから。子どもたちの将来を考えれば日本のためにもその方がよい。家庭の経済的事情でやむを得ず働きに出なければならないという人が多ければ、まったく豊かではない日本の証左ではないか。それを無理やり国民総生産という見かけの豊かさを追って自己満足に浸る政治家はどうかしている。家庭から乳幼児を持つ母親を追い出してそれで日本の国が豊かになることは絶対ない。乳幼児を持つ母親が幸せを感じる様でなければ真の豊かさは訪れることはないのだ。
おかわり委員会と言うのがあって、みんなが好きなものを上級生が先におかわりをして食べてしまうから、みんなが平等に食べられるようにという趣旨のもとに小学3年生が主体で委員会が構成されている。しかしよく見てみると、最初の盛り付けだけはみんな平等であるけれど、次のおかわりになるとがぜん中学生男子が早く、小学生低学年はおいてけぼりである。低学年の子供たちと一緒に食べていたので、子どもたちに『おかわりできなくなっちゃうよ』というとにこにこしていてそれには答えてくれない。案の定子どもたちが一杯目が終わるころには中学生は3杯目などというのがいて、到底2杯目が食べられない。それでも子どもたちは不服を言わないで満足しているようである。
ここの子どもたちの発想は鋭角的ではない。最初のころは鋭角的に鋭くぶつかって来た子もいたけれど、見ていても見ぬ振りして子どもたちが自ら気付いてくれるまで待っていた。幼稚園の子どもたちと共に暮らしてきたせいか『待つ』と言うことが容易に出来るようになった。1カ月ぐらい過ぎるころには彼の言葉も柔らかくなって好感のもてる少年になっていった。基本的に優しい両親に育てられているから、自らの違和感を発見し自らを正す力も備わっている。いくら突っ張っても柔軟に吸い取ってあげるから、周りの子とすぐに同化できる。
たまに子どもたちと一緒に何かをするというか、この世界に入っていくことがよいと感じる。私もここで校長をしていた時があるから子どもたちとはすぐに親しみ深く話ができる。途中からこの学校に来た子どもたちが生き生きとしているのはここの学校のシステムは勿論のこと、子どもたちの寛容さがそうさせている。教師も『待てる』寛容さを持っている。若いのにすごいことだ。
昨日の幼稚園の話だけれど、政府がやっている『子ども子育て』について、あのやり方で本当に子どもたちが幸せになるのかというと疑問だらけである。昨日も書いたけれども女性の社会進出などと今から始まることではなく、女性は子育てということですでに一人の子供を育てるのに月75万円の社会貢献をしている。それを忘れていることは女性を軽んじていることではないか。なのに家庭で育児をする女性には手当は無料で、幼稚園や保育所に預ける家庭には保育料が無償になるというのは容認できない。むしろ家庭で育児をしている母親に手厚くするべきだ。子どもにとってこれほど素晴らしい保育はない。
保育者がどれほど偉そうなことを言っても『母』に勝てるわけがないのだから。子どもたちの将来を考えれば日本のためにもその方がよい。家庭の経済的事情でやむを得ず働きに出なければならないという人が多ければ、まったく豊かではない日本の証左ではないか。それを無理やり国民総生産という見かけの豊かさを追って自己満足に浸る政治家はどうかしている。家庭から乳幼児を持つ母親を追い出してそれで日本の国が豊かになることは絶対ない。乳幼児を持つ母親が幸せを感じる様でなければ真の豊かさは訪れることはないのだ。
2018年7月21日土曜日
幼稚園のことを書こう
5年ぐらい前に認定こども園というのが新設された。実際に始まったのが27年が初年度だったから3年前になる。できるころには何度も県の係官から説明を受け一応は納得したつもりであったが、できあがってから国の「子供子育て会議」に預けられ、当初説明を受けた時とは全く方向が違ってしまっている。認定こども園は「幼保型」「幼稚園型」「保育園型」「地方裁量型」の四つに分けられていた。当然これらはそれぞれに役割があって目的が明確であった。私の園(土浦)も幼稚園型の認定こども園として出発した。
そもそもこのようなことになった背景には、少子化が進みこのままでは幼稚園の存続が危ぶまれたからにほかなかった。しかしこれは地方の幼稚園の話で、都会ではまったくそのような危機はなかった。認定こども園にする前には、国はよく幼稚園のことを考えてくれているなどと喜んでいたが、徐々にその真意が明らかになってきたのでがっかりすることが多々ある。第一に幼稚園型認定こども園というのは、幼稚園主導であるから今まで通りの運営方針で幼稚園として賄っていくことができるというのが大前提であったが実際はそうではなく、保育所の管轄である市の介入がある。
私のところでは2号認定(両親が働いている)は10人しか許可をとっていないが、そのために保育所としての縛りを受けることになる。これでは本来の幼稚園としての業務が縮小されてしまう。それはなぜかというと、認定こども園の就業時間は子どもを11時間預からなければならないというのがある。これには園則を変えなければならないが私はいまだに園則を変えていない。幼児教育というが幼児を出しものにして大人社会の仕組みを円滑にしようとしているだけで、子供たちにはいい迷惑である。
その理由を書こう。第一に子供たちはだれのために何のために生きてているのか。第二に子供達には大人の介入できない子供の世界があって誰しもが冒してはならないものである。第三にこの地球上の自然や人間同士のコミュニティなどは、すべて子供たちからの借り物ではないか。第五に政府は国民総生産を上げるために女性を社会に出し所得を得るように勧めているが、これは子育てに関して言えば誤った考え方で親子引き離し政策である。政府は80パーセントの女性を仕事に就かせたいと考えているらしい。これが幸せの政策だとしたらお笑い種である。
女性の社会進出の話をよくするが、女性の家庭内での貢献度は男性が会社でもらってくる給料に換算すればはるかに高収入である。なぜなら子供一人を家庭で育てている女性の月給は75万円に相当するといわれている。それが二人の子供だったらどうなるのか。しかも女性は産みの苦しみから解放されて0歳の子供を育てているときには、2時間おきぐらいに子供に起こされて寝る時がない。子供が静かになったかと思って自分が寝ようと思った時には、今度はそばで寝ている子供に寝返りか何かで踏みつけてしまうのではないかと熟睡する時がない。
そうした努力があって子供が少しずつ成長していく。そして母親となった女性は何の見返りも求めず子供と共にニコニコと暮らしていこうとする。そんな小さな幸せをふいにあたかも災害のように、外へ出て働けというのではいつになっても幸せになれない国ニッポンになってしまうのではないか。外へ出て働くとか働かないとかいうのはその家庭に任せて政府が介入することではないだろう。
来年10月以降に幼稚園・認定こども園・保育所の3歳から5歳までの幼児は無償化になることがほぼ決定した。それに合わせて預かり保育も無償化しようという動きがある。私は無償化には全面的に賛成するが、モラルハザードの問題も一緒に解決しなくてはならないと思う。例えば必要以上に預かりを願ったり、子供を置き去りにしてしまう危険性があるからだ。私のところの現在の体制では預かり全面的に開放するというのは困難である。徐々に子供の内面を大切にしていく幼稚園が少なくなっていきそうな気がする。
子どもにとって必要な環境と教育というのが幼稚園教育要領に書かれているが、これすらも無視されて、待機児童解消のためにものすごい勢いで子供たちが流されて行ってしまう。誰かが立ち止まって流されていく子供たちを救ってやらなければならない。そのために私たちの幼稚園は懸命になって幼児教育を学んできたし、発達心理についても大学の教授のそばで学んできた。このまま流されたのでは私たちを育んでくれた多くの人たちに申し訳が立たないではないか。生きている証としての理念が大切だと私は信じている。これからが幼稚園経営の正念場になるのではないかと思っている。
そもそもこのようなことになった背景には、少子化が進みこのままでは幼稚園の存続が危ぶまれたからにほかなかった。しかしこれは地方の幼稚園の話で、都会ではまったくそのような危機はなかった。認定こども園にする前には、国はよく幼稚園のことを考えてくれているなどと喜んでいたが、徐々にその真意が明らかになってきたのでがっかりすることが多々ある。第一に幼稚園型認定こども園というのは、幼稚園主導であるから今まで通りの運営方針で幼稚園として賄っていくことができるというのが大前提であったが実際はそうではなく、保育所の管轄である市の介入がある。
私のところでは2号認定(両親が働いている)は10人しか許可をとっていないが、そのために保育所としての縛りを受けることになる。これでは本来の幼稚園としての業務が縮小されてしまう。それはなぜかというと、認定こども園の就業時間は子どもを11時間預からなければならないというのがある。これには園則を変えなければならないが私はいまだに園則を変えていない。幼児教育というが幼児を出しものにして大人社会の仕組みを円滑にしようとしているだけで、子供たちにはいい迷惑である。
その理由を書こう。第一に子供たちはだれのために何のために生きてているのか。第二に子供達には大人の介入できない子供の世界があって誰しもが冒してはならないものである。第三にこの地球上の自然や人間同士のコミュニティなどは、すべて子供たちからの借り物ではないか。第五に政府は国民総生産を上げるために女性を社会に出し所得を得るように勧めているが、これは子育てに関して言えば誤った考え方で親子引き離し政策である。政府は80パーセントの女性を仕事に就かせたいと考えているらしい。これが幸せの政策だとしたらお笑い種である。
女性の社会進出の話をよくするが、女性の家庭内での貢献度は男性が会社でもらってくる給料に換算すればはるかに高収入である。なぜなら子供一人を家庭で育てている女性の月給は75万円に相当するといわれている。それが二人の子供だったらどうなるのか。しかも女性は産みの苦しみから解放されて0歳の子供を育てているときには、2時間おきぐらいに子供に起こされて寝る時がない。子供が静かになったかと思って自分が寝ようと思った時には、今度はそばで寝ている子供に寝返りか何かで踏みつけてしまうのではないかと熟睡する時がない。
そうした努力があって子供が少しずつ成長していく。そして母親となった女性は何の見返りも求めず子供と共にニコニコと暮らしていこうとする。そんな小さな幸せをふいにあたかも災害のように、外へ出て働けというのではいつになっても幸せになれない国ニッポンになってしまうのではないか。外へ出て働くとか働かないとかいうのはその家庭に任せて政府が介入することではないだろう。
来年10月以降に幼稚園・認定こども園・保育所の3歳から5歳までの幼児は無償化になることがほぼ決定した。それに合わせて預かり保育も無償化しようという動きがある。私は無償化には全面的に賛成するが、モラルハザードの問題も一緒に解決しなくてはならないと思う。例えば必要以上に預かりを願ったり、子供を置き去りにしてしまう危険性があるからだ。私のところの現在の体制では預かり全面的に開放するというのは困難である。徐々に子供の内面を大切にしていく幼稚園が少なくなっていきそうな気がする。
子どもにとって必要な環境と教育というのが幼稚園教育要領に書かれているが、これすらも無視されて、待機児童解消のためにものすごい勢いで子供たちが流されて行ってしまう。誰かが立ち止まって流されていく子供たちを救ってやらなければならない。そのために私たちの幼稚園は懸命になって幼児教育を学んできたし、発達心理についても大学の教授のそばで学んできた。このまま流されたのでは私たちを育んでくれた多くの人たちに申し訳が立たないではないか。生きている証としての理念が大切だと私は信じている。これからが幼稚園経営の正念場になるのではないかと思っている。
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