2019年2月27日水曜日

年少の劇遊びが終わった

何とも言えない可愛い小さな子供が立ったり座ったり来るっと回ってみたりして、特設のステージで大好きなご両親の前でニコニコしながら披露している。うれしくて仕方がないようだ。あのかわいさを何と表現して良いのやら、まったく名状のしようがない。あんな可愛い子を毎日のようにニュースになっている虐待なんかできるものか。人間の心を持たない大人がいて、その大人が子育てをしているなんて、どこかの段階でやめさせなければなるまい。

2019年2月21日木曜日

隣の国

北朝鮮の核問題と拉致問題が日本にとってひっかかる問題であるが、これらは外交問題として二国間では絶対に解決できない問題であろう。だから隣の韓国や米国の軍事力に頼らなければならない。悲しくともそれが現実だろう。拉致問題を政府に解決を願っても現状では永久にできない。戦争でもしない限りかえってはこないだろう。米国にすり寄っていなければ何もできない日本だけれども、節操というものがあるだろう。もっともこの『節操』というのは日本にしかないようだ。政治の世界には『節操』などというものはない。だから中国でも韓国でも平気でうそをつく。そんな国とまともに付き合っている日本の方が『おかしな国』と世界には映るようだ。
日本近海には韓国や北朝鮮それに中国と好き放題に海洋資源を荒らされている。こんなことにどうして国会は問題にしないのか。勿論国の指標である統計も大切だが、国民の財産を他国に荒らされていることに目をつぶっている国会なんて一体どこの国の議員の集まりなのか。
韓国軍による照射問題について結論が出ていないが、日本の海自のセミナーに韓国が参加するという。日本は大人対応と言って悠然と構えているけれど、韓国と国交断絶ぐらいの覚悟を持って対応してもらわないと、国民の方が爆発してしまう。『遺憾に思う』の言葉は聞き飽きたし、どのように対処したのか日本人として誇りある結果を望みたいものだ。拉致問題は日本が強力な軍隊を持ち朝鮮沖に軍艦を並べると一気に解決する。トランプがやったことと同じことだが、誰でもその解決方法は知っているが国会がやろうとしない。議員の中に反日派がいては無理だ。

2019年2月20日水曜日

「立派な年長」始まる

年長の子供たちが4~5人のグループで元気のよい声で園長室のドアをたたく。『はいどうぞ』と言って入室を促すと、あらかじめ用意してある白線を越えて、私のそばまでやってくる。『もうちょっと後ろだよ』と言われるとぞろぞろと後戻りして線の位置につくと、賞状をもらう子がクラス名と名前を言って始まる。応援に来た子も大きな声で『応援に来た○○です』と言って早速仲間をほめたたえるのだが、それが何度か続くと、いうことがなくなってしまうようで声が徐々に小さくなっていく。
第一日目にこんなことがあった。私の前に出てくると緊張してしまうのか声が出ないでもじもじしている子がいた。劇遊びがあんなに上手にできたのに声が出ないなんておかしな話だというと、気合を入れ直すのか踊りを踊り始めた。せっかくのことだから最後まで見届けたが、踊りはみんなが好きなようで良く覚えている。
そんなことをしていると、もじもじしていた子が突然本当に突然大きな声で仲間の応援をしだした。勿論立派な賞状は受け取ることができたが、記念写真を撮るところで、もじもじしていた子に対してみんなが『よくやった』とたたえていた。声も出なかった子は嬉しそうに恥ずかしがっていたが良い光景だった。
『立派な年長』はまだまだ続くがこれからどんなドラマが待っているのか楽しみである。

2019年2月13日水曜日

幼稚園の生活発表会

年中と年長だけの発表会だけど、永遠の可能性を思わせるような躍動に溢れる発表会だった。何もこれは私のよく目ではない。あのような舞台を観るときには何処に視点を置いて観ればよいのかでも評価が変わる。当然幼稚園の劇遊びだから、演劇力などの採点はない。大きな採点と言えば『どんな気持ちで』というところに重点を置く。
そう思うと年中も年長も思い切り自分が感じたようにふるまっていたように思う。子どもたちの気概というか、わだかまりのない柔らかい、しかも力のある心情を思いきり舞台の上で発揮できたのではないかと思っている。あれだけ自分を出し切ることができた子どもたちに大きな拍手を送る。そうは簡単にできることではない。
発表会終了後に保育者全員で反省会を行うが、終了後にすぐに行うことが伝統になっているようだ。時間の設定や幕間の間の取り方など細かいところまで話し合う。矢張りやらなければならないのだろうな。
私の総合的な評価として、劇遊びだから振り付けやらセリフなど微に入り細に入り保育者の助言などが子どもの動きの中にちりばめられていることは言うまでもないことだが、それが見えなかった。これは素晴らしいと思う。子ども一人ひとりが主役であったということだ。皆さんお疲れ様でした。またありがとうございました。

2018年10月5日金曜日

バザー

書き続けていたブログが消えてしまってからというものはあまり書く気にもなれなくて随分休んでしまった。書かなくてはならないことも沢山あったけれども、どうも先に筆が進まない。第二幼稚園ではバザーがあったり、初等中等学部では『あおば祭り』があったりして記すべきことがあった。ここに書かないことは私の怠慢になるだろう。幼稚園や学校に対して常に親身になって子どもたちのために頑張っている保護者に対して心からすまないと思っている。

ここに書けないということは私の感情の整理がまだできていないということで、ブログを消されてしまったことに対して許せない気持ちがずっと続いている。私のところに詫び状のようなものが届いていたようだが、言い訳が強くて全然詫びてはいない。あたかもこちらに非があるようにも読みとれる内容だ。こんな卑怯な文面に付き合ってはいられないから、学校側の対応を担っていた責任者に後は任せることにしたが、何も進んではいない。

さてバザーは父母の会にとっては4月からの懸念事項だと思いますが、無事に盛大にできてよかったですね。それに私がいつも感心するのが『能ある高』が少し爪を見せたような作品を見せてもらえることです。それに卒園児保護者のブースがあってそこにも出品されていることに毎年のことながら頭の下がる思いです。お父さんたちも朝の駐車場の整備やらかき氷などで活躍されていて、本当に申し訳なく思っています。ありがとうございました。重ねて御礼申し上げます。

初等中等学部の田んぼの稲も周りの田んぼと同じように稲刈りがすんで、やっと隣の田んぼと同じようになりました。後は子どもたちの手で稲刈りをするのみとなりましたが、稲刈りをするにはそれなりの理由がありました。なんといっても文化や文明というのは衣食住を起点として栄えたり発展してきたものだから、これを基本にしなくてはならないという思いです。学問の基本は興味関心からでありますが、これも大本を言えば衣食住からです。クラス編成が衣食住になっているのはこの発想からです。しかし田植えは今年が最後になります。田んぼの持ち主と連絡が取れなくなってしまったことと、日本の米食文化が30%に落ち込んでいるという現実から、田植えはもう古いかなと思うようになりましたがいかがなものでしょうか。

2018年9月11日火曜日

幼稚園の遠足

親子遠足と称して年に1回の遠足がある。幼稚園は3年だから1年1年違うところへ行くようにしている。今年は大洗の水族館だ。来年は海浜公園で次の年は日立にあるかみね動物園に行く。
年に一回しか行かないのだから、保護者の皆さんもなんとか時間を作っていくようにしている。今は昔と違って専業主婦が非常に少なくなってきているので、予定が天候に左右されて延期にでもなったら次の日を作るのに大変だ。最悪の場合中止ということになる。親子遠足なのに親子で行けなければ意味がない。以前は知り合いの保護者に頼むということがあったけれど、大人の関係が熟していないのか「頼む」ということが安易にできないようだ。それでも親子で行けることが何よりも一番だ。

子どもの笑顔は親子で食事をするときで、狭いところに手作りのお弁当をいっぱいに広げて話をしているときと、買い物をねだっているときだ。これは古今東西変わることがないだろう。幸せいっぱいの子どもの笑顔はこれに勝る癒しはないだろう。

ところで、このブログ始めてから15年ぐらいたつけれど、小学校を作ったときの身を削るような苦しい時があったけれど、そのような歴史を綴ってあったものが、いやそれだけではない幼稚園経営のその時々の喜怒哀楽のようなことが綴ってあったものが、業者の手違いだか、幼稚園側の話がうまく通らなかったのか定かではないのだが、消えてしまったという。これは幼稚園の宝であるのでこのまま放置するわけにはいかない。そんな大切なものを認識していないというのが何よりも許せないではないか。

どんな謝罪の言葉をいただいても許せないので、現況復帰が一番である。今後のやり取りは文書でやるのがよい。インターネットのやり方を、業者の言うがままに新しく変えたというのが大きな失敗だったのではないか。

2018年9月3日月曜日

初等中等学部現況報告

先日我が校田んぼも稲穂をつけそれなりに田んぼらしくなって、周囲の田んぼの稲穂にも多少の劣等感を持ちながらもどこか胸を張っていたものだったが、何ともう稲刈りを終えてしまったところがちらほらと見える。大器晩成型などとうそぶいていても、ただ近くの田んぼよりも田植えの時期が3週間ほど遅かっただけの話だ。稲刈りをし、脱穀をして、精米して食べられるようになれば同じ米としておいしそうなご飯に変身するはずだ。学校で取れた米はすべて学校給食となる。もっともよく計算をしてみると、自作の米を食べるより買って食べた方が安上がりだ。しかし学校には教育的見地というのがあって、米作りが子どもたちに及ぼす影響などをしっかりと考慮し、精査してこれからのことを考えたい。思い浮かぶのは田植え前の田んぼで『泥んこ祭り』をして、生徒も教師も真っ黒になって楽しんでいる姿がある。

先日の土曜日に中学生向けの学校説明会があった。幼稚園から中学までの保護者との付き合いがある。親は子どもの成長とともに喜んだり悲しんだりする。喜びばかりならいいけれど、人生の中でそんな都合のよい話はない。要は自分の欲求が深ければ深い悲しみに襲われたりするが、それが成就した場合にはとてつもない大きな喜びに変わる。こう考えてみると自分の人生は喜怒哀楽とともにある。いかにこれを苦しみの少ない喜びに満ちた人生にするかは欲求との相関関係にある。一つ言えることは、子どもへの過大な要求を突きつけないことだ。普通であればよいというのなら、うちの子は全員が普通以上の能力を持っているし、キャリアを言うならばどの子も人にやさしいではないか。社会に出てこれ以上の人間力はない。また優しさがないと、どんなに優秀な学力を持っていても大成することはない。これは人間社会の鉄則である。

能登半島

   能登半島でM7の巨大地震があるなんて夢想だにしなかった。正月に「昨日と同じ朝が来る」なんて不謹慎なことをかいてしまった。まさかそのあとで能登半島に大きな地震が来るなんて悔やみきれない。今日時点で死者数が202人となった。行方不明者がその200人を超えている。これからまだまだ...